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3F/長期滞在者&more

ドーナツの島で泳ぐ

長期滞在者

飛行機に乗ると、世界はなんて広いのだろうと思う。国際線なんか特に、ときに1万kmを超える膨大な距離を移動するあいだ、夜から朝へ、あるいは夜の領域を追いかけるように、飛行機の外では違う時間が流れている。

あるときには、機内食もとうに食べ終わって歯を磨き、明かりの消された機内で、ブランケットにくるまって、窓のカバーを開けて、外を眺めている。寒々とした夜空が見える。絨毯のように広がる、のっそりとして現実感のない一面の雲の上を静かに飛んでいることもあるし、遠くのほうでときおり、鋭い雷がひらめていることもある。翼の先では数秒ごとにオレンジ色の灯りが光り、それが機体に反射するのしか見えない、真っ暗な夜もある。

こんなふうな、人間の暮らす環境とはまったく異なる世界を眺めていると、眠気と狭い座席の疲れにぼやけた頭は、今いる場所を見失いはじめる。自分という存在が薄まっていくような気がしてくる。周りを見渡しても、だいたいの人は眠っていて、起きている人も、視線は機内エンターテイメントに釘付けになっている。同じように外を眺めている人はいないらしい。そう思うと、ちょっと誇らしいような気分になったりもする。

DOH

あるときには、地上に灯りが見えることもある。遠く遠く、針の先のような小さな光がいくつも集まって、カビかなにかが四方八方に細く伸びていくような形で、人間の集まっている場所が広がっているのがわかる。高度が低ければ、車が動いているのも見えたりする。車に乗っているのは仕事帰りの人だろうか? これから友人の家にでかけたりするのかな? そして、あの灯りのひとつひとつには家がある。どんな間取りでどんな家具があり、どんな人が、何を食べて暮らしているのだろう。……あり得なかった無数の人生を想像し、自分の人生が今あるような形におさまっていることの奇跡をあらためて実感する。

あるときには、もはや今が何時なのかわからなくなったような、間延びした昼間の時間。無感動にふと窓の外を眺めてみると、真っ青な海に珊瑚でできた小さな島が点々と顔を出している。生物も木も見当たらなくて、大きさのスケールがまったくわからないのだけれど、海上に出ている部分はエメラルドグリーンというにふさわしく、海中に沈んでいる部分は、真っ青な海と溶け合ってグラデーションになっている。なかにはドーナツ状になっている島もあって、島の真ん中に、グリーンとブルーの中間くらいの明るい色に落ち着いたプールがある。満潮になると海とつながるのだろうか? わたしの意識は早くもその島に降りていって、そのプールで泳ぐ場面を想像している。きっと太陽に熱せられて、水はぬるぬると温かくなっているのではないだろうか……。

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空港というところも、考えてみればおもしろい。空港は通り過ぎるだけの場所で、目的地ではない。けれど、発券を待つあいだや乗り換えのために、数時間滞在したりすることもある。せわしないけれどどこか落ち着く、不思議な空間。たくさんの人がいるのに、常に移り変わっている。真夜中も細々と息づいて、朝になると大きく息を吹き返す。天井の高い金属質な空間に、わざとらしいプラスチックの植物がぽつりぽつりと置かれている。

そして、見た目も年齢も目的もさまざまな人が、行き交っては別れていく。いろいろな国や地域からやってきた人びとが一緒になり、保安ゲートを通って出国審査を受け、またそれぞれ別なゲートに散っていく。十数時間後には世界のまったく異なる場所にいて、おそらく今後一生すれ違うこともないたくさんの人びとが、外の世界との接続がぼんやりとしたような、ちょっと独特な雰囲気をもった空港という場所にうごめいていて、どこかへ行こうとしている。

CPH

最終到着地の空港にたどり着いたときの気分もさまざまなのだった。はじめての土地では、なんだかそわそわして、心の警戒レベルがすこし上がるような気がするけれど、同行者や現地の知り合いがいると、とたんに心強くなって、これからの日々を思い浮かべてわくわくしてくる。海外調査で何度も使っている空港に降り立つと、湿気のこもった蒸し暑い空気を吸い込んで、久しぶりだな…と、なんだかうれしくなってくる。明日からの予定を確認したり、その国の言葉を頭のなかで思い出したりしながら、あらためて気を引き締める。

疲労とともに、出発した空港に帰ってきたときの安堵感も良い。あとちょっと電車を乗り継いでいけば、久しぶりの我が家にたどりつく! ついつい、空港出口にあったスターバックスでコーヒーなんか買ってしまう。どことなく身になじむ気候や雰囲気。自分が連れている空気とのあいだには、まだちょっとしたずれがあるような気がするけれど、その違和感もいつのまにか薄まって消えていく。ぼんやりと電車に揺られながら、また始まってしまう日常のことを思って、すこし感傷的な気分になる。

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その日、わたしは昨夜出張から帰ってきたばかり。Rは早朝から出張で、わたしも再びあさってから海外渡航。次に会えるのは1ヶ月後、ということになっていた。めまぐるしく過ぎ去ったここ1週間の濃い話をゆっくりする暇もなく、まだ陽も昇らない時間に、いつもの空港までRを送り届けた。

帰りの道すがらコンビニに車を停めて、ちょっとしたパンのかけらなんかを食べつつ、しばらくお別れだな……としんみりしていると、メッセージが入っていることに気づく。予定の飛行機が2時間半遅れだという。

わたしはすぐさま空港に戻って、車を駐車場に停めて、売店でいそいそと朝ごはんを買ったりなんかして、Rの待つロビーへ急ぐ。おにぎりやクッキーをほおばりながら、暖かい紅茶を飲みつつ、ここ1週間であったことや、これから考えないといけないことをたっぷりおしゃべりして、じゃあまた1ヶ月後、と別れたのだった。

空港の外はもうすっかり土曜のお昼になっていて、なんだかふわふわした気持ちのまま、あやうく帰りの道では交通事故にあいかけた。家にたどりついて、荷物をパッキングし、すこし昼寝して、起きるともう夕方で、わたしは夕飯を作りはじめた。

ひとりの分量に慣れず、夕飯は全体的に多めになってしまった。

doughnut

ぬかづき

ぬかづき

のどかにつづる

Reviewed by
田中 晶乃

自分の席だけに照明の光が一筋に伸びている。暗い飛行機の中。
機内には同乗者が何人もいるのに、なんとなく一人のような、集団の中の一部のような気がしてしまう。

“こんなふうな、人間の暮らす環境とはまったく異なる世界を眺めていると、眠気と狭い座席の疲れにぼやけた頭は、今いる場所を見失いはじめる。自分という存在が薄まっていくような気がしてくる。”

気圧のせいなのか、地上とは違った上空に身を置いているからか、それとも狭く閉ざされた空間だからなのか、
自分という存在が薄まっていくという表現が、ぴったりと合う。

到着する頃には、きっとまた自分に戻れるような気がする。
飛行機という空間だから、あと少しだけこのままでいさせてほしい。
暗い窓の外を見て、少し目を瞑ろう。

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