午前中からずっとデスクワークをしていて、早めのお昼を食べたあとの昼過ぎ、集中力が切れてきて、さてなにか気分転換をしようかな……と思うときがある。そういうときには、職場の近くのなんてことない場所を、あてもなくぶらぶらと散歩するのが好きだ。できれば、冬にはあたたかくて、ついでに、目を楽しませるなにかがあるとなお良い。
温室というのは、そうしたそぞろ歩きに最適な場所なのだということを知った。以前しばらく滞在していた北欧のとある大学では、植物園のなかに研究所が建っていた。居室のドアを開けたあと、歩いてたったの3分で、温室にたどりつくことができた。
温室のなかはあたたかいから、コートなんか持っていかない。居室を出て真冬の屋外を100メートルばかり歩くと、向かい風がさっとふきつけてくる。Tシャツの内側がしっとり冷たくなって、みぞおちに触れる綿の感覚がよそよそしく感じられる。顔には冷気があたって、ほてった頭がきりっと澄んでいくような気がする。
遠くからでも人目を引くきれいなガラス張りの温室には、“Palm House”という名前がついている。木製の重たいドアをガチャリと開けて、ドアが勝手にバタンと閉まると、なかには植物たちのための部屋が広がっている。
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まずそもそも、森とか樹とかというものは、さえぎるもののない空の下に茂っているものなのに、こんなガラスの屋根があって、ガラスの壁に囲まれた空間で、どうしてこうもたくさん、こんなに高密度で繁茂できるのか。レンガの花壇に、整然と、大きな樹木からささやかな草本まで、いろいろな植物が植わっている。植物の生き生きとした力強さが、人の手で丹念に整えられている様子が、なんだかとても心地よい。
通路を移動すると、見たこともない植物が次から次へと現れる。原産国を当てようとしてみたり、学名をスマートフォンで検索してみたり、英語で書かれた説明板を読んでほうほうとうなずいたりしながら、世界中にはこんなにいろいろのおもしろい植物がいるのだなと感心する。
知っている植物に行き当たるのも楽しい。タコノキやバナナをみつけて、沖縄のことを懐かしく思いだす。南米に生息するソテツ目のZamiaは、このあいだ読んだ論文にたまたまでてきた植物。ツリートマトはアフリカの調査地でよく食べていたけれど、木に生ったのをみるのははじめて。なにかで知った、ガラス質の細かい棘が生えたおそろしい植物 (ギンピ・ギンピというらしい) も、ガイコツのマークが2つ書かれた看板とともに奥のほうに生えている。
通路をぶらぶらとさまよいながら、19世紀にこの温室が建てられたときのことを思う。インターネットやテレビを通じて異国の見慣れぬ植物を知る機会もなかったその昔、温室をおとずれた人びとは、どのような脅威の目をもって、こうした植物を眺めたことだろう。現代に生きるわたしだって、散歩にやってくるたびに、植物の多様性に目をみはり、おとずれたことのない異国の地を思って想像をふくらますのに。
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温室では、いろいろなものが楽しい。外から入ってきた男の人の眼鏡がサッと曇り、きまり悪そうにはずしているのが見える。ベンチには、親子や学生やカップルがよく座っていて、くつろいでおしゃべりをしていたり、ふざけあったりしている。どこかぼんやり座っているのは、観光客とおぼしき格好の人たち。写真を撮ったり、絵を書いたりしている人びともいる。
静かな虫の声も聞こえる。声の聞こえる方向を目で探してみるも、どこにいるのかよくわからない。スピーカーがあったりするのだろうか? いやいや、そんな無粋なことはあるまい。虫を探している最中、茂みに隠れた胸像を発見したりもする。
人工の池には生きた魚が泳ぎ、小さなカエルが先導するように前を跳びはねていく。水滴が頭の上に落ちる。葉っぱが枝に落ちかかるようなふさっとした音がして、すかさずそちらのほうを振り向いても、いろんな植物の枝葉が生い茂っていて、なにがどこに落ちたのかは、もはやわからない。
温室では部屋ごとに温度や湿度がすこしずつ異なっていて、真ん中の大きな部屋は熱帯で蒸し暑く、その横には温帯の部屋、さらに先には、高山帯の涼しい部屋が並んでいる。高山帯の部屋はヒヤッとするほど涼しくて、天井で回るファンが、ヴーンという低い音を響かせている。
この高山帯の部屋にはウツボカズラが群生していて、なんだかわくわくしてしまう。マレーシアの高山でウツボカズラを発見したアルフレッド・ラッセル・ウォレスの旅行記 『マレー諸島』のことをふと思いだす。ウォレスたちはウツボカズラの内部に溜まった水を飲んで、乾きをしのいでいたのだった。この温室のウツボカズラの水も、もしかしたら飲めるのだろうか……。
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あるとき、温帯の部屋に入ると、なんだかなつかしいような甘い香りがした。きょろきょろ見渡すと、右手のほうに赤い花がたくさん咲いている。近づいてみると、それはツバキだった。鼻を近づけて匂いをかぎ、地面に落ちた花冠を拾い上げて検分する。標識にはCamellia japonicaと書いてある。ツバキで間違いない。
温室の通路に並んだ多様な植物のほとんどは、わたしの知らないものだけれど、なかには一部、ツバキのように慣れ親しんだ植物もある。この温室を訪れる世界中の人びとは、きっと、慣れ親しんだ植物をそれぞれにもっている。ほかの人にとってははじめて見る珍奇な植物でも、その人にとっては、なにかを思い出させるなつかしい植物になるのだろうなと想像する。
現代の社会では、ヒトもモノも情報も、19世紀とは比べものにならないほど世界のあちこちを行ったり来たりするようになって、珍しい植物をはじめて見たときの博物学的な驚きは、だいぶ薄まってしまったかもしれない。そのかわり、人はそれぞれに大きく異なる知識や経験をもっていて、その背景に応じて、同じものを見ていても、何を感じるかが異なってくるのだ。これって、考えてみると、とてもすてきで、おそろしいことではないかしらん。
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温室は冬には15時で閉まり、白熱灯が灯される。1日の仕事を終えて、植物園を通り抜けて帰途につくとき、冷たい夕闇のなかでオレンジ色に輝くガラスの建物を眺めながら、そのなかに息づく植物たちのことを思うのだった。