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3F/長期滞在者&more

11年前(アメリカ)

長期滞在者

昨年9月の記事で取り上げたベトナム/カンボジアへの旅の半年後、今度はアメリカを旅した。

アメリカ大統領選が佳境を迎え、全米の地図をテレビで目にすることが多くなったことで、11年前にアメリカを旅した一か月を振り返りたくなった。

<往路>

成田から飛んだのか、羽田から飛んだのか、降り立った空港からどう移動したのかまったく覚えていない。大学は春休みに突入していたが、前日の夜まで終日バイトをしていて機内では爆睡していたのだろう。

<ニューヨーク>

ニューヨークでは、いとこと会う約束をしていた。

いとこは私より年が3つか4つ年上で、数年に一度会う仲だったが、私が大学進学のために上京することになった際、色々世話をしてくれた。

上京の翌日には、大学入学のお祝いも兼ねて、モツ焼き屋に連れていってくれた。それまで生まれてから一度もモツを食べること無く過ごしてきたが、この日一瞬にして虜になった。今となってはモツの2文字を見るだけで頬が緩む。

いとこは頭の回転が速くまた行動が速い人なので、ニューヨークにぴったりだと思っていたが、久しぶりに会ってもまったく変わっていなかった。ニューヨーカーの歩くスピードは私にはとても速く感じたが、いとこはトップクラスに速かった。

そのモツ焼き屋の夜から2年。ニューヨークで再会した日は、どこかのレストランに連れて行ってもらってビールも飲んだと思うが、モツ焼き屋の時と対照的に何を食べたか何を話したかもまったく覚えていない。

いとこの部屋に泊った翌朝、一人でニューヨークを散策したが、チェルシーホテル以外どこに行ったかほとんど思い出せず、強い感動もなかったのだろう。

ただ、グレイハウンドバスの1ヵ月乗り放題チケットを無事に買えたことに満足して、ハンバーガーショップで時間を潰していたことはよく覚えている。

もしかすると、思い出せることがほぼ無いに等しく、感想も特になかったことが、大都市に圧倒されていた所以なのかもしれない。

<ボストン>

グレイハウンドバスに乗って5時間ほどでボストンに着いた。

バスターミナル近くのゲストハウスに着くとモリッシーの歌声が流れていた。受付には、ナインインチネイルズを聴いてそうな細身でタトゥーの入った女性がいた。

荷物を置いて街に出てみるが、通りのレストランは値段が高過ぎて食べられるものがない。

ボストンと言えば大学の街というイメージがあったので、ハーバードとMITを訪れてみたが何の感慨も湧かなかった。ただ両校のキャンパスがこんなに近い距離にあることが驚きだった。

市内を流れるチャールズ川沿いには多くのランナーがいた。地元の住吉川の方が走りやすそうだなと思ったことを憶えている。

せっかく異国の地にいるのにどこか自身の感度が低いなと思いながらフラフラ歩いていたら、広場でボブディランのファンクラブの会員バッジを襟につけた男性と出会い(私から話掛けた?)、色んな話をして連絡先を交換する。アメリカまではるばるやってきてよかったと、ようやく思えた。

<バッファロー>

ボストンからさらに北へと進みカナダとの国境沿いに位置する、ナイアガラの滝に最も近い町、バッファローに辿り着く。見渡す限り雪景色。北海道と同じくらいの緯度だろうか。しかし一面の雪を見てもなかなか心が踊らない。

せめてゲストハウスで誰かと知り合えたらという願いもむなしく、私以外に宿泊客はおらず宿のオーナーも眠たそうだ。

翌朝早起きしてナイアガラの滝に向かったが、オフシーズンなのかほぼ貸し切り状態であった。ナイアガラの滝が貸し切りとは何とも贅沢な。滝には絶景ポイントがいくつもあった。橋を渡り一度カナダに入国し、反対側からも滝を眺めてみる。カナダ側には大勢の観光客がいた。どうやら、滝を見物して近隣のカジノで楽しむのが定番コースのようだった。私のカナダ滞在はわずか2時間ほどだった。

<アトランタ>

北の果てまで行った後、今度はひたすら南を目指してバスに乗る。

南へ向かう途中、経由するアトランタを経由することに気付き、降り立ってみた。かつてオリンピックが開催された地方都市というイメージだったが、歩いてみるとうらぶれた雰囲気が漂っていた。

なかなか街の特徴が掴めないまま、4時間ばかりで南へ向かうバスに乗ることにした。

よいか悪いか、街の上澄みだけ掬うようなある意味贅沢な移動ができるのもグレイハウンド周遊券のおかげだ。

<キーウエスト>

南へ南へ移動してようやく辿り着いた理想郷。

アトランタから50時間近くバスに乗り続けたはずだが、どこかでシャワーを浴びた記憶も無く、どうしていたのだろうか。。

マイアミを超え、海の上に作られた一直線の道路をバスが走っている時は感動を覚えた。

ビーチ、ヘミングウェイ、カクテル、クラブと完璧なまでのリゾート地。夜、ルームメイト達とクラブに向かう。生バンドがウィーザ―の曲を演奏していた。

ビーチの先にはアメリカ最南端というスポットがあり、そこで記念に写真を撮ったことを憶えている。海の向うにはキューバが見えていた。

ビーチに来たことに舞い上がり、肌に何も塗らずに泳いで砂浜で寝て起きると背中が日焼けで大変なことになってしまった。以後一週間はバスの背もたれに背中が触れるだけで激痛が走り、バックパックを背負うこともできず、移動に支障をきたしてしまった。

<ピッツバーグ>

最南端を訪れた後、今度はひたすら西へ移動した。

途中、バスの乗り換えのためにピッツバーグに降り立った。

バスターミナルの近くは高層ビルが建ち並び、洗練された印象を受ける。観光客が少ないのか安宿はほぼ無さそうな街だったが、中心地から少し離れたところにYMCAがあるとガイドブックに書かれていたので、宿を目指して路線バスに乗って丘を上っていく。

ガイドブックに記載されていた住所に着いたものの、近くにそれらしき宿はない。所狭しと並ぶ一軒家の多くには、軒先に『大型犬注意』の張り紙が貼られていた。

どれも改修が必要であるような一軒家が建ち並ぶ通りを歩いていると、パティスミスのように背の高いスラっとした女性と目が合った。一目でジャンキーと分かる。歯がほぼ無いが、話している単語は何とか分かる。この2週間があまりに平穏に過ぎていたため、スリルを欲して心が沸きあがる。女性に連れられてバックパックを抱えたまま案内された一軒家に行くが、鍵がかかっていて中に入れない。その女性は金切り声を出しながらドアを叩き、中の住人に対して”開けろ”と叫ぶがドアは開かない。私の方に振り向くとニコッと笑顔で”心配ないよ”という表情を見せる。そうしたやり取りを3回ほど繰り返した後に、急にこの場から離れたくなり走って逃げた。走りながら背後で女性の叫び声を聞く。周りの人に勘違いされないか怖くなる。いやいや私は何もやましいことはしていないという顔を作りながら丘を降りる途中、運よく走ってきた路線バスに乗ってバスターミナルに戻った。

結局その夜は、バスターミナルの床でバックパックを枕にして過ごした。

いまもピッツバーグという単語を聞くと、背中がビクっとしてしまう。

<ニューオーリンズ>

夕方ターミナルに到着。宿にバックパックを置き、シャワーを浴びてから、中心地に出かける。

さすがはジャズの街。路上の至る所でミュージシャンが演奏している。

壁を背にして複雑なリズムでバケツを叩きながら、スティックを背後の壁に当てて跳ね返りを目で追うことなくそのままキャッチして叩き続けるドラマーに目が釘付けになった。

通りにはそんな路上ミュージシャンが数多くいて、平日の夜なのに祭りのようだった。

ただ、ピッツバーグの出来事がしこりとなって残っていたのか、私はお祭り騒ぎに加わることなく、遅くまで開いているバーガーショップで晩飯を食べ、再び通りをブラつき路面電車に乗って宿に帰り、ルームメイト達の会話に交わることなく眠りについた。

<エルパソ>

ニューオーリンズからさらに西へと向かうなか、バスの車窓からは緑色がどんどん消え失せていった。砂の風が吹きすさんで、窓が開けられない。

建物から料理に至るまでアメリカよりもメキシコ文化に近いエルパソは、これまでのどの都市とも違いとても新鮮に映った。

ただ、アメリカ文化とメキシコ文化の交差点としてどこかお高い雰囲気があり、作られた素朴さみたいなものが漂っているようにも感じられた。

ゲストハウスも少しばかり格式高かった。

一方で、乾燥した風が心地ちよく、公園で昼寝するのには最適な街であった。

<番外編:メキシコ>

翌日、エルパソにあるメキシコとの国境検問所を訪れて、メキシコに入国した。なぜかパスポートには国境のスタンプが押されていなかった。

国境を流れるリオグランデ川はアメリカとメキシコを隔てる象徴的な川であるため勝手に壮大な川を想像していたが、実際はコンクリートで舗装された支流ほどの川でガックリする。

ルチャドールのマスクが売られているのを目にし、自分がメヒコにいることを知る。

その国境沿いの街は、アメリカ側からやってくる人達に向けて日用品や土産物を売る人達が多く、メキシコの中では特殊な街なのかもしれない。当時は知らなかったが、麻薬カルテルが大きな力を握る街でもあった。

アメリカに戻る時、出国のスタンプが押されていないことを問われて入国できなかったらどうしようと不安でソワソワしていたが、係員は特にパスポートのページを確認することもなく中に入れてくれた。

一方で、検問では犬を連れてしつこく車内の荷物をチェックしていた。心臓を震わせながら国境を超えようとしている人達が少なからずいるのだ。

<サンディエゴ>

旅もラストスパートで、帰国まで残り一週間。

ついに西海岸に着いたが、サンディエゴは街全体が何の憂いもなく楽しんでいるようなところで、入り込む余地が無かった。

ゲストハウスではたまたま同い齢の早稲田の留学生と同部屋だった。バーに飲みに行ったが、彼は留学生活に疲れているようで、私も旅の疲れが溜まっていたせいかあまり盛り上がらずに宿に戻った。

<ロサンゼルス>

サンディエゴから北上し、ロサンゼルスのバスターミナルに降り立つ。ターミナルの外に出た途端、治安の悪さを察知する。高層ビルが建ち並ぶエリアまで足早に向かった。

たしか1泊はしたはずだけれど、どこに泊り何を食べ誰と出会ったのかまったく思い出せない。

ロサンゼルスの中心部はどことなく大阪の梅田辺りの雰囲気と似ていたような気がした。

<サンフランシスコ>

終着点のサンフランシスコ。

とても素敵な街だった。私も一度は住んでみたい。

念願のヘイトアシュベリーに行く。街角には、地面に置かれたタイプライターを前に、”即興で詩を書きます”というダンボールを掲げる男性がいた。

ヘイトアシュベリーの端にある、倉庫のようなレコードショップAmoeba Musicで記念にReplacementsのTimというアルバムを2ドルで買う。

隣のハンバーガーショップでトイレを借りてから通りに再び戻ると、とても満ち足りた気分になっていた。まだ帰国まで3日残っていた。自由であった。

このままゆっくり過ごそうかとも考えたが、せっかくグレイハウンドバスのチケットが使えるのだからとヨセミテ国立公園に弾丸で行くことにした。

バスに乗ってヨセミテの手前の街に着いたが、その街は公共交通機関が1日に数本しか走っていなかったため、すぐ近くにも関わらずそこから目的地まで半日もかかってしまった。

今だとGoogleMapで経路検索をしたら数秒で最短の移動ルートが出るのかと思うと、この10年で何と便利な時代になったと思う。

<ヨセミテ国立公園>

ようやくたどり着いたヨセミテでは、終始鳥肌が立っていた。

移動中に知り合ったスウェーデン人の男性とフランス人の女性とともに山小屋に泊った。その日は早めに就寝し、翌日のトレッキングに備えた。私は軽く登る予定でいたが、せっかくだからエルキャピタンを登ろうという話になり、私もそうすることにした。

エルキャピタンの頂上まで4時間ほどかけて登る。クロックスしか持ってきていなかったので、頂上付近の凍っている場所で何度も滑る。よくもまぁクロックスで登ったなと呆れる。スウェーデン人の男性はフランス人女性に好意を寄せているようだったが、2人の関係は少しぎくしゃくしているように見えた。

下山するともう夕暮れ。腹はペコペコ。どうしようかと財布と悩んだ末、登山を頑張った自分へのご褒美に食べた14ドルの山小屋でのディナーは、野菜を豊富に使ったスープとカリっと焼かれたチキンが抜群に美味しく、素晴らしい食体験になった。

できることなら何ヶ月でも滞在したい場所だった。

そこからサンフランシスコにどう戻ったかは記憶に無い。

<帰路>

最終日の深夜、サンフランシスコの宿で奇声を発するルームメイトがいた。ブラジル人のルームメイトと一緒にオーナーに訴えて部屋から出て行ってもらう。

帰りの飛行機ではずっと眠っていたように思う。

1ヵ月の間に冬も夏も経験したように思えたが、それよりも月の半分をバスの中で過ごしたことに改めて驚く。この旅以降、日本で夜行バスに乗ってもまったく苦痛に感じなくなった。

覚束ない記憶を辿って振り返ってみたが、当時の手掛かりが何かないものかと思い巡らせていると、学生時代に全盛期だったmixiのアカウントに写真や日記が残っているかもしれないと思いつき、案の定当時の日記が出てきた。

読むと調子に乗った学生気分の文章に嫌気がさすも、疑いなく私が11年前に書いたものなので、固有名詞だけ省いてそのまま記載することに。

3月4日から今日まで、約1か月かけてアメリカ大陸を横断してきました。

出発前に、1か月日本を離れることを日記で書かなあかんと思ってたけど、見事に忘れてました、メールくれた人ほんますいません

ニューヨークから入り、ボストン、バッファロー、カナダ、ピッツバーグ、ワシントン、アトランタ、キーウエスト、ニューオリンズ、エルパソ、メキシコ、サンディエゴ、ロサンゼルス、ヨセミテとバスで移動し、サンフランシスコから飛行機で日本に帰ってきました。

すっげぇ長かったとも言えるし、あっという間とも言える1か月でした。

アメリカにいる間、●の追いコンや新歓や学園祭、●の企画、免許合宿、バイト、日本におるいろんな人との遊びや飲みを犠牲にして自分はアメリカに来てるんやっていう意識は忘れず持ってたつもりです。

アメリカを旅している間、幸運にもたくさんの人と出会い、コミュニケーションをとることができました。その中でも2人、是非紹介したい人がおるんで見てみてください。

一人目はBenjamin Winterという人で、バッファローのバスターミナル
で知り合いました。はじめ、彼が「これからカナダの音楽フェスに行くんだ」と言ってたので、もちろん客として行くんやと思ってたら、彼はフェスの出演者でした。カナダの人気バンドARCADE FIREとも共演したことがあるらしいです。本当は15ドル何だけど…と言ってたけど、最後にはCDまでくれました。もし興味ある人おったら貸します。

http://www.benjaminwinter.com/
http://www.youtube.com/watch?v=dtngCs0Jk1s

二人目はAdam Kathmanというアーティストで、個人的にこの1か月の中で一番深く話をした人です。彼とはハーバート大学の裏の公園で知り合いました。普段は鉄道を運転してる、ボブディラン一筋な人でした。
短いけど、めっちゃええ曲なので、ぜひ聴いてみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=yEZniakEZ2Q&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=Xi0ZP0nuD1k&feature=related

また、旅のことはいろいろ長くなるんで、直で会った時にいろいろ聞いてくれたら幸いです。
ちなみに、デジカメで撮った写真はアップしようと思ってます。

それにしても、早くみんなと飲み行きたいです

まぁそんなわけで、また4月からもよろしくお願いします

鼻につく文面は無視して、旅の行程を見返すと、ワシントンにも滞在していたことに気付いた。そういえばホワイトハウスで写真を撮った。すっかり忘れていたが、この時期にアメリカを旅しようと決めたのも、オバマが大統領でいる間にアメリカを訪れたいという想いからであった。

何よりも、ピッツバーグにはキーウエストよりも前に訪れていたことに驚く。いかに記憶というものがあやふやなものか思い知らされる。

振り返るのもいいが、やはり今まで訪れたことのない地へまた旅に出たい。

次に海外に旅立てるのはいつのことやら。

キタムラ レオナ

キタムラ レオナ

1988年兵庫生まれ

Reviewed by
小峰 隆寛

若かりし頃のアメリカでの旅、それはレオナさんにとってどのようなものなのだろうか。昔から思っていることだが、レオナさんの魂の故郷は、日本ではないのかもしれない。

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