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3F/長期滞在者&more

写真の手前のページ

長期滞在者

友人からお勧めされた本をここ2週間ほど少しずつ読んでいる。

いまから20年ほど前のSNSがまだ発達していない時代に、ブログで日々の心情を書き綴っていた方の文章。

ブログや日記は1日ずつ読むには興味深いが、それが1冊の本となったとき、統一感と重みが消え失せて、わざわざ本で読まなくてもええかという気分になったことがこれまで何度かあったので少し抵抗があったのだが、友人を信じて読み始めた。

結末は先に耳にしていたので、その結末を前提にページを1枚1枚捲ることになる。

読み始めると冒頭から筆者が持つ様々な領域(エロティシズム、美術様式としてのグロテスク)の知見に圧倒され、筆者の愛読書をメルカリで探して買ったり、図書館で予約したりと、”結末”を意識せず読み進めていた。

現在、私は3分の2ほどを読み終えた。

読み始めた頃に感じていた筆者から繰り出される圧倒的な情報量に押し潰されそうになる感触とは異なり、後半になるにつれ、文面から滲み出る緊張・切実さが徐々に筆者の知のパレードを上回り、こちらの受け止め方も変化してくる。

半分を過ぎた辺りからページを捲るごとに終焉に近付くことがはっきりと意識されるようになり、容易にはページを捲ることができなくなる。

一度に何日分ものページを捲ることが、とても重い罪のように感じてくる。

本の中では、サイバー空間にいる不特定多数を対象にした文章ではなく、随所に特定の個人を意識した文章も目に入ってくる。

私もアパートメントで書く場を持って数年間が経つが、意識するまいと思っても特定の個人を意識してしまうことがある。

毎月連載をしていることを積極的には周囲の友人には伝えていないのだが、主に呑みの席で気付かぬ内に伝えてしまっていた。おそらく直接伝えている友人は5~10人ほどであろうか。

普段Facebookで投稿することはほとんどないのだが、数年前にアパートメントのリニューアルで寄附を募っていた際にFacebook上で自分自身がお世話になっている場であることを仄めかしたため、その投稿からリーチして、もしかしたら毎回記事を読んでくれている方もいるかもしれない。

小中高、大学、社会人、仕事、旅先、被災地、どこで会ったか思い出せない人、今となっては気まずい人etc、Facebookで繋がってる誰かから読まれている可能性もあると思うと不思議な気分になる。あの頃の自分しか知らない人が読んでギャップを感じへんかと気にしてしまう。小さいようで大きなところでは、地の文における関西弁の取り入れ具合は、誰に読まれているかに左右される。

こういうことをいま書いているのも、もしかしたらこのページを読んで頂いているかもしれない直接の知人が頭の片隅から消えないからかもしれない。加えて、毎回私の記事のレビューを担当してくれている友人(実はこの本の紹介者だが)のことも、今回の記事では特に意識から外すことができない。

本の話に戻る。

当時そのブログにはどのくらいの閲覧数があったのかは分からないが、サイバー空間の不特定多数を意識した独白ではなく、”不特定多数の1人1人”に向けて主張が書かれている部分が後半になって目立っていた。

「いまこれを読んでいるあなた」という投げかけは、物を書く上で、”不特定多数を意識した独白”とは対極的に、1人1人に直接届くことを目的とする手紙に近いものを感じる。

そして、その投げかけを行った本人がこの世にいようといまいと、またどれだけ時間を経とうと、読み手にグサッとしたものを突き付ける。

私が読んでいるのは文庫化する前の大型本なのだが、本人のブログが最期まで収められたパートと筆者の知人達が後に綴った文章群のパートの間に、カラー写真(被写体は筆者の収集していたコレクションなど)のページが数枚挟まれている。

ときどきその写真のページを眺めるのだが、写真の手前のページに綴られているであろう筆者の言葉と向き合う覚悟が未だ持てない。もしかしたらそのページまで一生辿り着けないかもしれない。

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