山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』(河出書房新社)
山内マリコさんの小説は、いつもタイトルが素晴らしい。
『ここは退屈迎えに来て』『アズミ・ハルコは行方不明』『さみしくなったら名前を呼んで』……。どれも初期の作品だけど、耳に残る七五調で、短歌のように数文字で作品世界の色合いがしっかりと喚起される。
『選んだ孤独はよい孤独』というタイトルも、この初期の作品たちと同種のリズムを備えている。
でも、浮かび上がる色合いは他とは異なる。それは、これまで女性たちを描いてきた山内さんが、この作品では男性にスポットを当てているからだろうか。
繰り返す「孤独」のリズムに耳を奪われるけれど、立ち止まってその言葉の意味を考えてみると、自分から選択した孤独というのは、たしかにいつも良いものだと思う。逆に、選ばされた孤独や、孤独を選べないのは、想像しただけでも息がつまる。
この本に登場するのは、そんな息が詰まる状況にいる男たちだ。象徴的なのは、一番最初に収録されている「男子は街から出ない」。地方都市の人間関係を舞台に、グループ内で思うような身の振り方ができずに翻弄される主人公・ヨシオの姿が描かれる。
ヨシオは子供の頃からの腐れ縁である今の友人グループにうんざりしながらも、他の人間関係や趣味がなく、誘われたら金欠でも遊びに出かけてしまう。窮屈な交友関係に絡め取られ、まさに孤独を選ぶことができなくなっている。
“とにかく、見た目は取り繕っていても、中身はまったくカッコよくないのが、どういうわけかすぐバレてしまう。この場合のカッコいいは、当たりがキツかったり、挙動ががさつだったり、相手の受け止め方をまるで考えず、傍若無人に振る舞って、他人を振り回したり傷つけたりする男ってこと”(「男子は街から出ない」より)
ヨシオのいう「カッコよさ」を備えた人間が力を持つ状況に、覚えがある人は多いのではないか。
それはいわゆるホモソーシャル的なもので、別にそんなものカッコよくもなんともないよ、と思うのだけど、自分もその価値観に支配される世界の磁場の強さを知っているから、気持ちはとてもわかる。それに、ヨシオが今行ける世界には、それ以外のカッコよさは存在していない。外の世界があることもわかっているけれど、出て行くことができずに、結局今の世界でカッコよくなろうともがいてしまう。
『選んだ孤独はよい孤独』には、そんなふうに、関係性や地位の中で身動きが取れない男たちがたくさん登場する。
全19編、中には数行で完結するような短い作品もある。緩急があって、全体にどこか音楽的なリズムが漂う中、大きく「友達や仲間」「女性」「仕事(社会)」「家族」そして「人生」といったモチーフが順番に描かれていく。
どのモチーフでも、男たちは生きづらそうだ。「苦労する男たち」というニュアンスで、妙なロマンチシズムが付随しがちなテーマだが、ここにはその価値観が入り込む余地はない。
たとえば、仲間内で「学年で一番可愛い」とされる女の子と付き合ったはいいものの、自分勝手な要望や性的に求められ続けることに耐えられなくなり、こっぴどいフラれ方をしたり(「女の子怖い」)。
男たちからは仕事ができる頼れる人物として評価されているけれど、実際は“あってもなくてもいいような仕事内容だけど、それをさも重要だと思わせる存在感を出すのがうまいだけ”で、家では暗い顔でウコンのサプリを飲みながら、妻に“夫が飲み会だと夕飯の支度が楽”と思われていたり(「ぼくは仕事ができない」)。
苦労話のような、自分の男らしさに箔をつけるためのものではない、(男性社会で)生きていくのに、バレると致命的なダメージを受けそうな「弱さ」が、淡々と暴かれている。
弱さを見られると「女々しい」とか「ホモ野郎」といった言葉でヒエラルキーの底辺に位置付けられる世界。
そこで戦おうとする限り、彼らは感情のマグマを噴き上げて、生きづらさから逃げ出すことはできない。そして我慢したり、去勢を張ったりしているうちにマグマは固まって、茶色くくすんで固まった地層として足元を分厚くするだけだ。
そんな風に生き続けるのは、絶体絶命の気持ちだろう。でも、そこにこそ状況をアップデートする可能性があると思う。
『選んだ孤独はよい孤独』の登場人物は、自分の弱さに直面する。その姿は男らしさとは程遠いが、人間的な愛しさを秘めている。
ここで気をつけたいのは、これまで「男らしさとは程遠い、人間的な愛しさ」は、物語において、愛する女性に受容されてハッピーエンド……という風に回収されるケースが少なくなかったことだ。男は母性に慰められては、社会的な存在として戦うことを繰り返す。
だが『選んだ孤独はよい孤独』に登場する女たちは、そんな男たちを慰めない。動けない男たちを置いて、どこまでも自分の力で進んでいく。
話の数が多く、そのぶんだけの登場人物がいるので思想をまとめることは難しいが、この物語の中で行動を起こすのはいつも女たちだ。彼氏の悪口を言っていた裏アカを見つけられ、別れを切り出すのも(「彼女の裏アカ物語」)、うまくいかない同棲に見切りをつけて部屋を飛び出すのも(「あるカップルの別れの理由」)。
そこには、これまで女性が自分たちで勝ち取ってきた自由(それはまだ途上だけれど)と、男性が選べずにいる自由が投影されているように思える。
すべてを受け入れてくれるミューズは、あるいはママは、もう行ってしまった。これからは、自力で弱さを処理しなくてはならない。
「弱さを語ることは男らしくない」という価値観がある。それは、「(いわゆる男らしい)男性は、弱さを語る文体を持っていない」ということでもある。
そういう男たちが凝り固まったマグマを破壊し、弱さに紐づく感情を奥底から噴き上げる時、その表情や声色はどんなものになるだろう。男性社会という連帯の中にいながら、ひとり抱えている孤独は、どのように語られるのだろう。発明される文体は、どんな色彩で輝くのだろう。
山内さんの言葉は、その先を語ってはいない。そこからは、絶体絶命の男たちの仕事だからだ。
どのようにであってもいい。
それは同じように孤独へ向かおうとする人たちの、新しい指標になるはずだ。