街を舞い飛ぶビニール袋は、予期しないときに突然現れる。
初夏の真っ青な駅前広場で、緑の文字が書かれた白いビニール袋が、ふわふわと舞い降りてくる。その気配に気づいて、スマートフォンを取りだしてカメラを起動する頃には、もう、地面にぺしゃりと潰れており、ふたたび動きだしそうな様子はまったくない。ビニール袋をすかしてコンクリートの地面にうつる透明な影が、今でも目に見えるような気がしてしまう。
地下鉄に通じる長い通路をおりている平日の昼下がり、電車がプラットフォームに出入りする風に乗って、白いビニール袋が、ずずず……と地面をすべってくる。ビニール袋は右手に消えていってしまい、わたしは左手の風の吹いてくるほうに向かって、すこし黒ずんだ白タイル張りの壁の階段を無感動におりていく。
夜も遅い駅のプラットフォームで、線路の上をビニール袋が舞っていることもある。目の前を特急電車がごぅんごぅんと通り過ぎて、ビニール袋はその勢いに巻き込まれて、むこうのほうに隠れてしまう。最後にシュッと尾を引く風が通りすぎたあと、電車の背後に消えていったビニール袋は、もうどこにもみつからない。
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ビニール袋の生産やゴミにまつわる環境問題は知っている。環境問題なんか気にしないわけでもない。けれど、そういう関心とはまったく別に、風に舞うビニール袋を発見すると、つい足をとめて、首を回して、飛んでいく行方を追ってしまう。なんだかやけに気になってしまう。
風に舞うビニール袋を眺めていると、自分がどこにいるのかわからなくなってくるような気分を感じる。もしかしたら、これが、やけに気になってしまう原因なのかもしれない。
だいたい街のなかで空を舞っているものといえば、カラスやスズメくらいのものである。そんななかにあって、どこかに向かっているという意思をまったく感じさせずに、まるで海の中をクラゲがただよっていくように、空中をすーっとすべっていくビニール袋は、ちょっとした驚異の存在である。じっと見つめていると、自分の足がしっかり地面をとらえており、この世界があのようにすーっとすべっていかないことが、逆におかしなことのように思えてきてしまう。
あんなに遠くをふわふわとしているのに、ふと手を伸べて、すぐにつかめそうな気もしてくる。ビニール袋からわたしのほうが見おろされているような、そんな雰囲気さえ感じてしまう。光を受けて、ビニール袋だけが、周りの景色から浮きでて見える。
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ちょっと変わったものもある。
とある北欧の国で暮らしていた冬のこと。街の中心を流れる大きな川の岸辺が好きで、仕事の帰りや休日の昼さがりによく歩いていた。水面には白鳥やカモが泳いでいるけれど、水中と底は、なんだかゆらゆらとしてよく見えない。
そんなある日曜の午後、いつものように岸辺を歩いていると、水のなかに白いものが見える。近づいてよく見ると、それはすっかり色が抜けてくたくたになったビニール袋で、川底にひっかかっているようだった。川の流れのせいなのか、水面がさざめいて光の加減でそう見えるだけなのか、ビニール袋ははたはたとゆらめいているように見える。
真冬になって川が凍結したら、このビニール袋は氷のなかに閉じ込められて、はためくのをやめるだろうし、春が来て氷が溶ければ、またゆらゆらとしはじめるのだろう。そういうことを繰り返しているうちに、ビニールはちぎれて穴があき、袋の形を保つのをやめていくのだろう。そんなことを想いながら、しばし観察したあと、また家路を歩きだした。
もっと冬が深まり、強い北風が吹きはじめたある朝、アパートの5階の部屋から見おろすと、芝生になった広場にはえた木に、ビニール袋のロールのようなものが巻きついていた。すこし外にでているだけで皮膚が痛くなってくるような風に、どうどうとあおられて、ビニール袋はなにかの生物の足のように、巻きあがって、はためいて、また巻きあがって、ということを繰り返していた。
ずっと眺めていたかったけれど、そんなことばかりしてもいられないのだったと思い直して、仕事へでかける準備をはじめた。そういうときには毎回、この仕事の山が終わったら、ぼんやりした時間を確保して、ゆらゆらしているものを心ゆくまで眺めて時を過ごすのだ、と思うのだけれど、結局そんな機会を確保することはついぞないままに、いままで生きている。