Maysa Tomikawaさんの文章を読んで、以前から気になっていた津村記久子の『浮遊霊ブラジル』を読んだ。72歳のおじいさんが楽しみにしていたアイルランド・アラン諸島への旅行を前に急逝し、その未練から浮遊霊となって、いろんな人の体を乗り移りながらアラン諸島を目指す表題作のほか、全部で7つの作品が収録された短編集だ。
Maysaさんはこの中の4つめ、「地獄」という短編を取り上げている。突然のバス事故によって亡くなった女性が、死後“物語消費しすぎ地獄”という地獄に落とされるお話。彼女は生前小説家で、自身も物語を生み出す一方でとにかくたくさんの物語を消費していた。歴史的な事件、ツール・ド・フランスの自転車レース、2006年のW杯決勝でジダンが頭突きをする瞬間。主人公はかつて娯楽として消費したその物語の主人公となり、彼らの気持ちを追体験させられる。ちょっと楽しそう…と思うけど(僕もこの地獄に落ちるだろう)、主人公はそうして他人の極限状態を消費してきたことを反省する。
『浮遊霊ブラジル』を読みながら、その前に読んだ本も「物語」を扱っていたな、と思った。千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』という本。文芸評論家の千野さんはこの本で、物語論(ナラトロジー)という、物語の構造についての学問を用いながら、人間が無意識のうちに「物語」を希求してしまうこと、それがひとりひとりの人生にどう作用するのかを明らかにしていく。
混在していたり取り違えたりしていた考え方を、知的に接続し直すことで、見たことのない光が灯る読書体験だった。ヒートアップする快感を覚えた脳に、この冷静な分析は最初、水をさすように感じるかもしれない。でも、じりじりとした気持ちのまま文章に脳をチューニングしてみると、思わぬ思考の抜け道を発見できるはずだ。
少し内容を紹介してみる。たとえば、第2章「どこまでも、わけが知りたい」。あなたの大切な家族が突如交通事故に遭い、帰らぬ人となったとする。あなたは悲しみにくれ、「なぜ?」と問う。その時「あなたの家族は交通標識を無視してしまったのです」という答えが返ってきたとして、それは求めていた答えになるだろうか? 多分ならないだろう。不本意な状況に置かれた時の「なぜ?」は、「なぜ私がこんな目にあうのか?」ということだからだ。千野さんはこれを「実存的な問」と位置付ける。そして、家族が交通事故にあった理由について、感情的に納得できるような「ストーリー(この本では「ストーリー」は「世界を把握するための枠組」、「物語」は「時間的前後関係を表現するもの」として使い分けられている)」を、人は無自覚のうちに妄想してしまうとも説明する。たとえば、その直前に家族と喧嘩をしていたら、「自分と喧嘩したことを考えて、ぼーっとしていたのではないか」と考えてしまう人は多いのではないか。そういう風に、人は前後関係と因果関係を混同して使ってしまうということも、この本には書かれている。
「なぜ私がこんな目にあうのか?」って、それはもはや求めているのは「理由」ではなくて「意味」だ。だけど人生には、理由も意味もないできごとなんていくらだって起きる。たとえどんなに自分にとって深刻に思えるできごとでも。ある(と思える)のは解釈=ストーリーだけだ。
千野さんはこの「人間は物語る動物である」という習性を自覚することで、ストーリーが悪く働きそうな時にはそれを回避し「いいとこだけを取って生きていきたい」と考えるようになってから「いろんなことがラクになった」という。
自分はできごとに意味やストーリーを与えるのは好きだ。一方で、それは「与える」もので最初から意味があるわけではないことも知っている。手放す方法もなんとなくわかる。ただ、誰かを励ます時や何かを書く時、その二つの間を行き来するのは自分の芯がぶれているようで、どうにも居心地が良くなかった。1か0じゃないといけない気がなんとなくしていたのだ。しかし物語論という学問を通して考えているうちに、それは背負うべきポリシーではなく、手のひらに収まる道具でいいのかもしれないと気づく。
著者自身が「いいとこ取りで生きていきたい」と語っていることが、とてもよかった。それは物語を肯定も否定もせず、批評的であれと言っているのだ。だから千野さんはストーリーに因果関係が加わるとより説得力が増す=滑らかになると話した上で、その滑らかさが必ずしも良いものではないとしている。第3章「作り話がほんとうらしいってどういうこと?」では、2012年頃に起きた「黒子のバスケ事件」を例に、この滑らかさが自己認識さえ歪ませ、「実話」が「ほんとうらしい作り話」に侵食される危険性を書いている。
それは自分の人生の主導権を、気づかないうちに譲ってしまうことだ。これは自分にも心当たりがあってひやりとしたというか、「(他人に説明する時に)自分の芯がぶれているようで居心地が悪かった」という精神性はすでに侵食されているとも言えるかもしれない。自分の考え方を外側から見て、筋が通っているか確認するのは大切なことだけど、それは内側で感じたことを曲げていい、ということとは違う。
自分の人生の主導権を離さないこと。第4章「『〜すべき』は『動物としての人間』の特徴である」では、感情に絡めて説明される。
“少なくとも、以下のことは言えます。「自分の感情の赴くままに行動すること」は、選択がないので「不自由」だと言うことです。コラムニストの酒井順子さんに『食欲の奴隷』という本がありましたが、そういう意味で言えば、自分の感情の赴くままに行動する(たとえば、かっとなってなにかしてしまう)のは、感情の奴隷です”(p177より)
ほかにも「わかる」というのは感情だから、人は嘘でもそれらしい説明を求めてしまうとか、膝を打つ話がたくさんあるのだけど、この本には文芸作品を物語論の観点から紹介した文章もあって、それがとてもおもしろい。トルストイ『アンナ・カレーニナ』でアンナの鉄道自殺が1度失敗することの効果、カフカ『変身』のアクロバティックで明るい結末、カミュの『異邦人』があぶり出すもの。日本だと川端康成の小説が「読み終わってもストーリーが終わった感じがしない」といわれることを例に挙げている。
そういえば『浮遊霊ブラジル』の一番最初に収録されている「給水塔と亀」という短編は、2013年の川端康成文学賞を受賞している。たしかに、この話は全然終わった感じがしないまま終わる。定年を機に故郷に帰ってきた男の、その最初の1日の物語で、これから起きることとかつて起きたことを直接描かず、物語の弾道を読者に美しく予感させるだけにとどめている。これは川端的と言えるだろうか。
「地獄」と「浮遊霊ブラジル」の主人公は、「物語のいいとこ取り」の好例かもしれない。どちらもなぜ自分が地獄に落ちたのかとか、なぜ浮遊霊になったのかとか、少しは考えるけれど意味を深追いしない。「実存的な問」につまずくことなく、行動あるのみだ。「個性」という小説では、主人公の友人の坂東さんという女の子が個性的な格好をしないと同級生の秋吉くんから認識されなくなってしまうため、ドクロの侍が描かれたパーカーを着たりアフロのヅラをかぶったりして登校してくるのだけど、これも行動あるのみなのがけなげでおかしい。
『浮遊霊ブラジル』には様々なタイプの話が入っているけれど、今挙げた3つは文章のテンポと現実離れしたできごとの応酬で、笑いながら読んでしまえる本だ。そこで展開されるできごとは、すごくナンセンスに見える。でも、もしかしたら人生って、深刻さの仮面をつけたナンセンスなことしかないのではないか。『人はなぜ物語を求めるのか』を読むと、そんな風にも思う。そして『浮遊霊ブラジル』の登場人物が、とても頼もしく見えてくるのだ。
左:津村記久子『浮遊霊ブラジル』(文藝春秋)
右:千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』(筑摩書房)