土曜でもいいし、連休のなか日でもいい。とにかく、きょういちにち休日をめいっぱい味わって、気心の知れた友人たちと、夜ごはんを食べたりなんかしながらゆったりおしゃべりして、そろそろ終電に近いような時刻に帰宅している。明日もお休みだから、ちょっとくらい遅くなっても大丈夫。
休日の街の空気には、ざわざわした人の気配やおいしそうな匂いが混じっている。この空気を吸いこんでいるだけで、自分まで、どことなく有意義な休日を過ごしたような気分になってくる。つられて心がうわついてきて、あたりをきょろきょろ見回したりなんかする。
夜も遅くになると、にぎやかな空気もだいぶ落ち着いてきて、くたりと眠そうな気配を帯びるようになる。都心を疾走する電車の座席に座って、うつらうつらとまわりを眺めている時間。楽しいおしゃべりのあと、ひとりになって、眠くてくたびれて、読みかけの本をひらく気にもならず、最寄りの駅に早く着いてほしいなと思う。ほかの乗客も、すてきな一日の記憶にそれぞれ浸り、蛍光灯に照らされて、ひときわ没交渉な車内が、夜の闇から浮き出ている。
最寄りの駅から外に出て、いろいろな方向に散っていく人の群れから離れていくにつれて、ほっとするような解放感が心を満たしていく。帰り道に猫を探し、夜空に浮かぶ銀色の雲を見上げて、街灯に照らされた枝の影が夜風に揺れるのを踏んでいく。ふらふらとコンビニに引き寄せられて、ついアイスなんか買ってしまったりする。本当はコーンに乗った大きいのを食べたかったけれど、罪悪感に後ろ髪をひかれて、カロリーの低い、棒つきの小さいやつでがまんすることにする。
電車のなかで座っていたときには、とにかく早く帰り着きたかったけれど、もう家を目の前にして、深夜の街を歩いていると、もしかしたら自分はあとちょっとくらい徘徊したいのではないか……という気分になってくる。多くの人は家のなかで眠ったりくつろいだりしており、このすてきな夜のすばらしさを知っているのは私だけかもしれない。このすばらしさを堪能しないで帰ってしまうのは非常にもったいないことなのではないか。ほら、月もきれいだし。
しばしの徘徊ののち、狭い部屋に帰りついて、流れるようにシャワーを浴びて歯を磨き、布団に倒れこむ。身体はぐったり疲れているのに、心がどことなく興奮しており、なんだか眠れないような気がする。そのくせ、ふと気がゆるんだあとはすぐに記憶が途切れ、気づけばもう翌朝になっている。
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ちょうど7月の中頃、ある地方都市で研究会を開催したことがあった。同じ週末に、この都市でなにか別な大会が開催されていたようで、中心部に近い宿は軒並み満室だった。そのため、ローカル線で山間部のほうに移動し、さらに駅から5 kmほど離れたユースホステルに宿をとっていた。
研究会とそれにつづく懇親会も大盛況のうちに終了し、ローカル線の終電の時刻にあわせて、わたしはひとり帰途についた。待ち時間のあいだにペットボトルの麦茶を購入し、電車に乗り、目指す駅には22時半に到着した。事前にメールで相談したところでは、日付が変わる前にチェックインしてくれれば良いとのこと。
懇親会では、おばさんたちが経営する小さな料理屋を貸し切りにしてもらっていたのだけれど、想像以上に参加者がつめかけてしまい、幹事をつとめていたわたしは、よくわからない罪悪感から、「こんなに人が来るなんて思ってなかったわ〜」と驚くおばさんたちと一緒になって料理を運んだり、日本酒の買い出しに行ったり、落ち着きなく駆けまわっていた。
そのせいもあって、駅につく頃にはちょっとくたびれていて、ユースホステルのWebサイトには、事前予約の送迎車もある旨が書いてあったことを思い出し、いちど電話をかけてみる。だけれどまあ当然のように、遅い時刻なので車は出せないとのこと。そうですよね、すみません…と電話を切り、さて、まあ、歩くか、と駅を出る。なに、たったの5 km。駅前にはコンビニもなく、タクシーも見当たらない。麦茶を買っておいて良かった。夜もふけて涼しくなってきたとはいえ、まだまだ蒸し暑い。
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駅前にすこしだけ広がる古くからの住宅地を抜けると、あとは一面の田んぼや畑、そして森。ところどころに街灯があるほかは真っ暗で、ひび割れてでこぼこした歩道は歩きづらいので、車道の真ん中を歩く。車もほとんど通らないので、まあ危なくはないだろう。すこし呑みすぎた日本酒の酔いをさますようにして、ときおり麦茶をあおる。
そういえば、いまさらながらに荷物が肩にくいこむ。ここに来る前、空港で測ったときには、カバンの重さは8 kgだった。翌日から学会が始まるので、数日分の着替えなどを抱えている。Webサイトの案内には徒歩1時間とあったのを信じて、スマートフォンの地図を頼りに、夜の道をてくてく歩く。
スマートフォンの明るい画面をのぞきこむと、一瞬だけ目がくらんで、自分の存在がこの場所と切り離されてしまったような錯覚をおぼえる。なんだかもったいないような気がして、スマートフォンはできるだけのぞかないようにしようと思う。
夏の夜の涼しい風がさあさあと吹いて、星がくっきりたくさん見えて、道の両端の田んぼからは蛙の声が響いている。距離をおいて街灯が道を明るく照らし、街灯を過ぎると、足元の影がゆっくりと伸びて、次の街灯のテリトリーに入る頃、ぼんやり消える。ふと気づくと空には、雲を透かして、真っ赤に染まったような、大きな半月が浮かんでいる。もうみんな眠っているのか、ロードサイドの販売所や家からは、明かりも漏れてこない。
結局、1時間とすこし歩いて、目指す宿にたどり着いた。Y字に分かれて、右の道はいよいよ山のなかに入っていく雰囲気を漂わせる本道。左の道は、川のせせらぎにそって脇にそれていき、しばらく歩いた先にユースホステルが見えた。
玄関を入った先には、なんとなく虫の居所の悪そうな表情をした、ホストのおじさんが座っていた。
「歩いてきましたか…」
「歩いてきてしまいました…」
……はりつめていた空気がすこしゆるむ。この一言のやりとりで、宿の宿泊許可を与えられたような、門を通してくれたような、なにかの試験に合格したような雰囲気を感じたのだった。
ひとしきり宿の使いかたの説明を受けたあと、湿度と一緒になって身体にじっとりへばりついた汗を流そうと、浴室に入ると、意外にもヒノキの大きな浴槽が現れた。脱衣所に、そういえば、DIYで浴槽を作ったというポスターが貼ってあった。夏の深夜の静かな山の奥、ヒノキ風呂に貸し切りの状態で浸かりながら、重い荷物にいためつけられた身体をゆったり伸ばす。
ほかのゲストを起こさないように、冷房のきいたドミトリーにそろりそろりと戻り、すでに日付が変わっていることを確認して、充ち足りた気分ですぐ眠りに落ちた。
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翌朝、薄いカーテンが部屋の中をやわらかく照らしているのに気づき、自分は今どこにいるのだったっけ? と数秒考え、夜の道を歩いて帰ってきたことを思いだす。昨夜の記憶には現実感が欠落しており、夜の中をすたすた通り抜けてきたことも、しばらくのあいだは、実際にあったことと思われない。