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虫の譜|カネタタキ Ornebius kanetataki

虫の譜

カネタタキ

それまでちっとも聞こえていなかった音なのに、ひとたび耳が憶えると騒がしい雑踏の中からでもそれを聞き分けられるようになる、ということがある。カネタタキの鳴き声というのはまさにそういった類の音だ。そこここの街路樹や植え込みで彼らは一生懸命に鳴いているのだけれど、知らずにいると控えめなその音は意外に意識にまで届かない。

けれども、いったん彼らの声を捉えられるようになれば、人生における真夏の夕暮れ時の楽しみは確実に一つ増える。例えば早めに仕事を終えて会社を出ると、空はまだたっぷりと太陽の光を湛えて明るく、仕事を終えた人々の解放感と昂揚感で街全体がなんとなくさんざめいている。よし!今日は本屋に寄ってゆっくりと選んで何冊か買ってみて、一杯だけキンキンの生ビールを飲んで帰ってのんびり過ごそうか!などと足が早まった時に、桜の街路樹から聞こえてくるのがカネタタキの声だ。

「カネタタキ」、これ以上に相応しいネーミングはない。両手に十円玉を一枚ずつつまんで打ち合わせた時のチッ、という音、これがまさしく彼らの鳴き声だ。金属的な音の硬さも響きもそっくり似ている。
「あずきあらい」と名前の成り立ちが同じであるところを見るに、ひょっとして昔の人はカネタタキの鳴き声から暗闇の中で硬貨を打ち鳴らす妖怪を思い浮かべたのではないか。シンとした夜には、彼らの声は凪いだ空気を伝って家の中までよく響いてくる。けれどもその声からすれば意外なほどに体は小さいし、樹上性のすばしこいコオロギだから闇の中からなかなか姿を見つけることができなかったとすれば、妖怪めいたものと考えられても不思議はない。

細長くて胴がむき出しになっていて触角が長い。その姿とすばやい動きは紙魚(シミ)になんとなく似ている。人によっては嫌悪感につながる姿かもしれない。けれども顔がかわいいし、何より控えめで一生懸命な鳴き声に心が癒されるので、鳴く虫を飼うなら3本の指に入るおすすめ種だ。虫かごのわずかな隙き間からよく脱走するけれど、たいてい天井の方からチッ、という声が降ってくるので椅子に上ってそうっと覗き込んでみると、カーテンレールやエアコンの上で短い翅をふるわせて鳴いている。その姿もまた何とも言えずかわいらしい。

 

長嶋 祐成

長嶋 祐成

魚の絵を描いています、広告系の制作会社の営業をしながら。
魚は見るのも飼うのも釣るのも食べるのも、みな好きです。
学生の頃に好きだった思想とか哲学のようなものが全部さらさら流れ落ちた今の自分が好きであると同時に、色味のなさに不安になったりしてます。

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