6月/結婚とヤバい女の子

日本のヤバい女の子

こんにちは、はらだ有彩です。
今年の春に2ヶ月間、アパートメントで連載をさせていただいていました。
またここで記事を書けることになったのでうれしいです。
(前回の連載 http://apartment-home.net/author/hurry/ )

私はmon・you・moyoという屋号で、日本の民話をモチーフにしたテキスタイルを作っています。
(http://mon-you-moyou.jimdo.com)

mon・you・moyoというのは造語です。
monはフランス語で「私の」、
youは英語で「あなた」、
moyoはスワヒリ語で「たましい」。
わたしのあなた、そのたましいを絶対に手に入れる。

女の子たちが民話や伝説の中で自分の思うように振る舞い、時には人間でなくなったり、「こちらの世界」と「あちらの世界」を軽々と飛び越えてヤバい存在になったりして、欲しいものを手に入れていく様子を見ているのはほんとうに気持ちがいい。はつらつと強い頬に光る涙はうつくしい。

ここでは毎月、季節にちなんだ日本の民話に登場するヤバい女の子、
ジャパニーズ・デモニッシュ・ガールたちの涙について、想像したいと思います。

かわいくつよい女の子、その涙をどうか拭かせてほしい。

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【6月のヤバい女の子】

●オシラサマ(馬娘婚姻譚)

馬と結婚した女の子がいる。

彼女には名前がない。名前のない、美しい娘です。彼女の父親は貧しい農家で、馬を一頭飼っていた。
娘と馬は恋に落ち、ある夜ふたりは馬小屋で同衾した。父親は怒り狂い、娘に黙って恋人を桑の木に吊るし、殺してしまう。
愛しいひとが死体となってぶら下がっていることに気づいた娘は、動かなくなったつやつやの毛並みの体にすがって焦がれ泣く。泣き続けるので父親の怒りは収まらない。娘を無理やり引き剥がし、男はさらに馬の首をはねた。切り落とされた馬の首、その首に乗って娘はにわかに宙に浮かび上がる。そしてそのまま空高くのぼり、二度と戻ってこなかった。
彼女は恋人と結ばれ、神となり、名前を持った。彼女たちは今日、オシラサマと呼ばれる。

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新緑の季節を経て、6月です。ジューン・ブライドという習慣にはあまりはっきりとした由来はなかったように思いますが、結婚情報誌は毎年この時期に力を入れている。その表紙はどれもハッピーな編集方針だ。

愛する相手と結ばれることはハッピーであるはずなのに、彼女の父親は、なぜ娘が馬と懇意になるのを許さなかったのだろう。
ふたりの間にコミュニケーションがあり合意の上であっても、馬と人間が性交渉するとお互いの体調に悪影響がありそうとか、受精したときに生物学的問題がありそうという観点から、セックスについては検討するべきかもしれない。しかし、注意を促すために、果たして首をはねる必要があるだろうか。

冥婚という婚姻がある。
例えば、ムカサリ絵馬は未婚で死んだわが子に死後配偶者を設定するという、山形県の風習です。「あの世で配偶者を持って幸福に」暮らして欲しいという気持ちから、親はわが子と架空の配偶者を描いた絵馬を寺に奉納する。絵馬には通常、異性の姿を描く。
タイの現代アーティスト、アラヤー・ラートチャムルーンスックの「タイ・メドレー1、2、3」という映像作品は、身寄りのない女性の遺体が収容された安置所で、タイの伝統的な恋物語“イナオ”を朗読するというものだ。“イナオ”は一人の王子と二人の女性の恋を描いた劇詩です。
ここでも、恋愛や結婚や生活の多様性はひとまず置いておいて、ある一定の(たぶん、マジョリティの)幸福の形を踏襲して死者を弔うという姿勢を取っている。
文化・習慣として、人間どうしかつ異性間での恋および結婚は、その詳細にかかわらずポジティブなものとされてきたのだなと思います。
このことについて、私は何も言うことができません。この人たちは亡くなっている。亡くなっている人の真実はもう絶対に分からない。分からないことに対して、私は何も言うことができない。

父親は彼の人生で培った価値観によって、娘の恋を許さなかった。許すか許さないかを決めるのは父親の自由です。そして、誰と人生を共にするかを決めるのは娘の自由だ。
「馬と結婚したい」という気持ちは娘を主人公とした人生における娘の自由な精神によるもので、「わが子に馬と結婚してほしくない」という気持ちは父親を主人公とした人生における父親の自由な精神によるものだ。だから男は馬の首を切り落とした。そして女は消失した。
ここでは誰にも非がなく、ただ悲しさがある。柳田国男の『遠野物語』でこの話を初めて読んだとき、私はただ「あーあ、ああ…」と思いました。誰が良いとか誰が悪いとかでなく、単なるいとしさと悲しさがあります。
私は自分が「結婚」をした場合、「もし生活が変わるのなら、良い暮らしになるといいですね」と言われたい。うれしいからです。えへへ、と思う。そして、その言葉を他人や肉親に強制することはできない。私の人生において私が自由にできるのは、自らの精神だけだから。

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ところで、私の祖母は帰省するたび「あんた、そんなんじゃ誰にも結婚してもらえへんで」「結婚できへんで」と言う。結婚「できない」という概念は、いったい成立するのだろうか。
これは少しも目新しい意見ではないのですが、私は自ら望んでする場合、「結婚」とは手段だと思います。(望まない結婚の場合はそうではないと思います。)
そして、手段があるのは目的のためだ。

愛のため。
お金のため。
親のため。
親から離れるため。
子どものため。
老後のため。
美しいドレスのため。
美しい着物のため。
心の平穏のため。
今までと違う暮らしのため。
今までと変わらない暮らしのため。
楽しい暮らしのため。
友情のため。
恋のため。
意思表示のため。
ちょっとどんなものかと思って試してみるため。
仮説検証のため。
好奇心のため。
法的なつながりを強くするため。
相続のため。
敵を打ち負かすため。
家を買うため。
犬を飼うため。
自由のため。
出世のため。
芸術のため。
実家の店を守るため。
力を得るため。
契約のため。
朝ごはんを半分こして色々な食事をするため。
無関心でいるため。
勉強のため。

私は未婚なので、これらはすべて想像です。(てんで見当違いで、ばかだなあと思ったり、気を悪くする人がいるかもしれないなと思います。)
でも私はかわいい人たちに、欲しいものを手に入れて好きなように生きてほしい。私も欲しいものを手に入れて、好きなように暮らしたい。そのために何かをするときや、あるいは何一つしないとき、どうか誰もあなたを邪魔しないでいてほしい。
祖母には私はたまに悲しくて、まあ、おおむね幸せだよと言う。祖母は顔をしかめます。

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馬娘婚姻譚では、父親は死なない。
こういった民話の中で、物語の終盤でこの世のものではなくなる存在に対して攻撃を仕掛けた者は、最後に死亡するケースが多い。馬から見れば父親は突然自分を殺した存在なのだから、復讐してもおかしくないですね。でも彼は生きている。
エピソードには様々なバリエーションがあり、そのほとんどの結末において、父親は消えた娘のお告げにより馬を吊るしていた桑の木から蚕を発見し、富を得る。オシラサマは農業などの神として、今でも信仰されている。

彼女は自分の恋人を誰の指針にも頼らず、あらゆる手続きを踏まず、暴力的に認めさせ、完璧なフォローを残して去った。好きなひとやものとだけ結ばれて、ぱっと消えて、残された人たちのケアも全方位完璧なんて、そんな軽やかなことがあるだろうか。
私はほんとうにうらやましい。ほんとうに理想的です。
私たちは気ままに空に消えることもできるし、たまにそうでない時もある。かわいい人たち、だけどいつでもあなたが楽しいとうれしい。朝起きて、食事をして、夜になって眠って、その合間にいくつかのやりたいことをして、それを繰り返して死ぬまでの期間、ひとりでいても、誰といても、あなたが楽しいと私はうれしい。

結婚の予定なんかなくても、きれいな着物を着てカメラの前ですましてポーズをとったりしようよ。もう式も披露宴も済ませていたって、何度もパーティをしようよ。気に入りのドレスを着て一人旅に出よう。ふざけてお祝儀100万円包んだりしよう。2で割り切れちゃう金額だけど、ちょっと景気いいでしょう。