11月/友達とヤバい女の子

日本のヤバい女の子

【11月のヤバい女の子/友達とヤバい女の子】

●ちょうふく山の山姥

女の友情は儚いものだろうか。友情と恋愛は別物だろうか。

20151101-1

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《ちょうふく山の山姥》

とても高い山があった。ちょうふく山という。その頂上はいつも雲に覆われ、だれも見たことがなかった。
ある晩山の上から黒い雲が降りてきて、「ちょうふく山の山姥が子を産んだから、餅を持ってこい。こないと殺す」と叫びまわり、大雨や雷、嵐を起こして帰っていった。
人々は慌てて餅を拵え、村一番の荒くれものたち二人に遣いを頼んだ。普段力にものを言わせて威張っているのだからこんな時くらい役に立てというのである。
気性の荒い若者は怯んで「道が分からないから行けない」と言う。そこで今度は村一番の年配の女性が選ばれ、彼女が案内役となった。名をあかざばんばといった。

山は登るにつれて険しく、暗く、激しくなる。人ならざる力がそうしていた。
三人は吹きすさぶ風に阻まれながら頂上を目指すが、ひときわ強い突風が急勾配を駆け下りてきたとき、二人のやくざ者たちは震えあがり、餅と女性を置いて逃げてしまった。
重くて持ち上げられない餅を置いて、彼女はひとりで登山を続けた。

ようやく登り終えたときには、辺りは暗くなっていた。深く皺の刻まれた震える手で戸を叩くと、鬼の形相の大きな女、山姥が迎え出てきた。
「ヤア、よく来たね。大変だったろ」
山姥は昨日産んだばかりの巨大なわが子に山中に置き去りにされた餅を取りに行かせ、ついでに獣を狩らせ、鍋を作ってあかざばんばにも振舞った。食卓はとてもあたたかく豪華だった。昨夜村の上空を駆け回り、餅を要求したのは生まれたばかりのこの子供だという。山姥は子が村で悪さをしなかったか心配していた。
餅に代わりに自分が頭から丸呑みにされなくてよかった、と胸を撫で下ろしあかざばんばが暇乞いをすると、山姥は親しげに引き止めた。
「まあ、まあ、もう少しいて、いろいろ手伝っておくれよ」

あかざばんばはそのまま山に留まり、出産を終えて体力を消耗した山姥の体を揉んだり、食事を世話したり、巨大な赤ん坊の様子を見たりした。21日が過ぎ、彼女が今度こそほんとうに帰らなければと言うと、山姥は起き上がり、きらきらと光る錦を差し出した。
老女は山姥の子に負われてふもとの村に帰った。折しも村では葬式が執り行われていた。皆あかざばんばは村のために山姥に食われてしまったと思ったのだ。
彼女は葬儀の参列者に山姥の錦を分け与えたが、果たしてその反物は切っても切っても減ることがなく、あたたかく、うつくしく、高い値で売れ、村人は幸福に暮らした。
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友達とはぜんたい何だろう。googleで「友達」と検索すると、「line 友達 削除」「facebook 友達 削除」「facebook 友達 非表示」というようなものがサジェストされる。
例えば私には高校生のころとても愛していた友達がひとりいたが、今は一切連絡を取っていない。これからもきっと取らないだろう。数年前、ほんとうに久しぶりに会った彼女と私の会話は1mmも盛り上がらず、お互いに心の底から白け、酒を飲み、食事をし、親しみを込めて別れた。
これは少しも悲しい話ではない。私たちはかつてそりが合った。そして今はあまり合わない。それはとても瑣末なことだ。話が合わなくても、どれだけシーンとなってしまっても、LINEを削除しFacebookをミュートにしても、あの数年間は白紙にならないのだから。彼女の部屋にあったうすむらさき色の蝋でできた花、そのすべすべとした手触りを私は今も覚えている。

20151101-2

山姥は一人で出産した。民話において山姥が出産するシーンでは、たいてい妊娠のパートナーである男性が登場しない。そして多くの場合、山姥は巨大な女性の姿で描かれる。
強い力があり、ひとりで様々なものを産む山姥はなぜ人間の老婆を引き止めたのだろう。
あかざばんばが山に滞在した21日という時間は、一般的に「産後の肥立ち」と言われることが多い期間と一致する。なるべく安静にし、リラックスして、体に負担をかけないでいることが望ましいとされている期間だ。この期間中、日常生活に支障があるから彼女に世話をさせたのだろうか?
劇中、山姥が生まれたばかりのわが子におつかいを頼むシーンがたびたびあった。この子はまる、とかがら、とかいう名前で呼ばれることが多い。母親ゆずりのパワーを持ったまるは、一人で山のふもとまで出かけることだって、動物を仕留めてをして食料を調達してくることだってできる。
一方、あかざばんばは人間です。彼女は物語によっては名前すらないことがある。餅も一人で運べないほど腕力がなく、元気に登山をするには高齢で、体力もあるとは言えない。山姥との関係において、彼女はあまりにも非力です。山姥にその意思があればすぐに屈服させられ、食われてしまう。この関係は対等ではない。彼女は決して自分の生活を投げ打ってでもこの人の力になりたい、支えたいと思ってとどまったのではないだろう。

ただそばにいる、ということがありますね。
友達には様々な形、特別な関係性、あらゆるバリエーションがある。しかしどの場合でも共通して言えるのは「友達は自分が産んだのではない」ということだ。アンドロイドと博士の友情でない限り、友達の起源は自分とは関係ない。関係ないところからやって来て、今たまたま近くにいる。その出自に自分が関与していないものと、ほんの短い時間、接触する。ただそれだけのことが、人生ではたまに、あるいはしばしばありますね。
あかざばんばは山姥のことを何も知らなかった。好きな食べ物も、思い出の本も、100万回リピート再生した曲も、学生時代の恋も何一つ知らない。今もきっと知らないままだ。ただ三週間だけを一緒に過ごした。そしておそらく生涯再会しない。
あかざばんばにとって21の夜はほんとうに迷惑で恐ろしいものだったのかもしれない。だけど、ごめんね、ありがとう。いやな気分にさせてしまうこともあったかもしれないけど、私はとても楽しかったよ。あなたの幸福を心から祈ります。
ちょうふく山のふもとの村では、山姥の加護により、誰も病気をしなくなったと物語は結ばれている。

20151101-3

私は、友達とは「幸あれ」と思ってたまらなくなるようなことだと思います。
ごくたまにしか会わないけれど、連絡もあまり取らないけれど、たぶん気ままに暮らしていて、どうかこのまま気ままに暮らし続けてほしい。そして春の夕方の公園や、秋の日曜の冷えた床でその暮らしを想像し、電話番号もメールアドレスも知っているけれど連絡するでもなく(ああ、どうか幸あれ)とむせび泣く、そんなようなものを友情だと思います。
それでは友達と恋人の違いはどこにあるのだろう。
幸せに暮らしてほしい。できれば近くにいて、その幸せが私によるものであるならばもちろんとてもうれしいけれど、仮にそうでなくてもとにかく幸せに暮らしてほしい。そして私も幸せに暮らしたい。友達も、恋人も、等しく「幸せに暮らしてほしい」、その気持ちに貴賎はないはずだ。だけど今現在、それぞれが異なる言葉で呼ばれ区別されているのはなぜだろう。

アンドレ・ブルトンとポール・エリュアールが詩を書き、宇野亜喜良が絵を描いた詩集 《恋愛 L’amour》の冒頭にはこう書かれている。
―愛し合う愛、ここで私たちの心をとらえることのできそうなただひとつのもの、それは、習慣のなかに異例のものを投げこみ、月並み表現のなかに想像力を、疑いのなかに信念を、外部のオブジェのなかに内部のオブジェの知覚を投げこむような愛のことだ。―
これはまったく、まったく友情の説明としても成立するのではないか。この前書きから始まる詩集は、率直に言うと性行為のときの体位について書かれている。性。いったい、性交渉が友情と恋愛を分けるのだろうか?恋愛は友情の上位概念なのか。接吻をすれば恋人か?私たちはどんな時も友達より恋人との予定を優先すべきなのだろうか。もちろん「私には友達はいない」ということもありますね。「いない」という状態も友情のあり方の一つです。私は誰にも友情を注がない、それが私の友情のあり方、感情の使い方だ。感情の形式にガイドラインがあるなんて、少しばかり親切すぎるのではないか。

《恋愛 L’amour》では性行為の体位に色々な名前をつけている。「小舟での誘拐」。「永久カレンダー」。「真夜中過ぎ」。「汽車の汽笛」。「野ぶどう」。これらはベッドシーンにおける実際の体勢を指していたり、精神の姿勢を指していたりすると思われる。
これに倣って私も自分を取り囲む関係に名前をつけようと思う。恋とも友情ともつかないあらゆる関係に。たいていの人にひとつずつ名前があるのだから、すべての関係に固有名詞があってもいいだろう。

「もっこうばら」
「見たことのない紋章」
「宇宙が最大だったのはいつか?」
「美女と犬」
「テレビ・ゲーム」
「流行遅れのシャッポ」
「味のないケーキ」
「下着」
「春のふぶき」
「常夜灯」
「ぺらぺらのスクラップ・ブック」
「行儀の良い靴」
「お湯を入れた箱」
「中華料理」
「空室」
「破廉恥な菓子」
「ミルクで磨いた廊下」
「夜明かし」
「バター泥棒」

親愛なる君、これらすべてをバベルの図書館みたいに保管しておくから、たまに読みに行こうよ。悲しくなったらそこで号泣しよう。泣きやんだらお腹がすくから駅前でラーメンを食べて、夕暮れの商店街で解散しよう。トッピングでにんにくをたくさん入れて臭くなっちまってもいいよ。私たち、ともだちだからね。