12月/喪失とヤバい女の子

日本のヤバい女の子

【12月のヤバい女の子/喪失とヤバい女の子】

●月の夜ざらし

どうしよう、私ったら、大切な指輪をなくしてしまった。でもどこで?
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《月の夜ざらし》

あるところに、若い男女がいた。庄屋の娘と婿に来た男の夫婦だ。
最初はうまくやっていた。二人は幼い頃から縁のあった者どうしではなかったが、打ち解けて、助け合い、慎ましく暮らしていた。
きっかけはほんのささいな違和感だった。夫の履物の揃え方だとか、箸の持ち方だとか。話し言葉だとか、足音だとか。今となっては思い出せないほど小さなことが、ある日ふと気にいらない気がした。
娘はふしぎに思った。いったい私は、この人の何が気に食わないというのだろう。だって、何というかその、彼ときたら至って善人なのだ。飲むでも打つでも買うでもなし、酔って暴れるわけでなし、これといって趣味もなし、話も特別面白くなし…あっ、違うんです。別に悪口を言うつもりじゃなかった。ただもう少し…もう少し?今とどこが違っていたら私、満足だったのだろう。万事この調子だった。

娘は思い立ち、山奥の老婆を訪ねた。まじないをする老婆だ。激情にかられてやってきたという風でもなく、噂話のようにおっとりと事情を話す娘に老婆は言った。
「蚕から糸を紡ぎ、それで機を織り、着物を仕立て、夫に着せなさい。ただし仕事はすべて満月の夜のみに行うこと。誰にも見られないこと」
娘ははたして、その通りにした。月に一度、満月の夜にこっそり家を抜け出し、蚕を煮て、糸を紡ぎ、機織りをして、着物を仕立てた。そして夫に差し出した。男は「やあ、ありがとう」と笑って袖を通した。そのままふらりと部屋を出て、二度と戻ってこなかった。

何日経っても夫は帰らない。寝巻きの上に彼女が縫った新しい着物を引っ掛けたままの格好ではそう遠くへ行けそうもないが、近所で見かけたという人もいない。娘は再び山奥へ出かけていった。老婆はお前の夫がどうなったか知りたければ満月の夜に六堂の辻で待っておいで、と言った。

こうこうと丸い月の下、彼女は夜道に立っていた。遠くの方から誰か歩いてくる。よく見ると、その白い顔は自分の婿のものだった。
男はふらふらと近づいてきて、娘に少しも気づかない様子で彼女の前を通りすぎ、角を曲がって消えていった。確かに彼は小さな声で何か言っていた。それはこんな歌であった。

「月の夜ざらしだとは知らずに着て、今は私、夜神の供をしています」

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はじめてこの話を読んだとき、私はこの女性について「なんちゅうやっちゃ」と思った。それから、何だか妙だなと思い直した。
着物を着せれば夫に何かが起こると事前に知っていながらそれを実行し、いなくなったら「いなくなったのですが…」と不思議そうに言う少女は、子供のように無垢で不気味だ。まるでそれまではずっとぼんやりしていて、たった今初めていなくなったことに気づいたかのようだ。たった今初めて気づいたということは、まるで「いなくなればいい」と思っていなかったみたいではないか。
電気もミシンもない時代、月に一度の満月の夜、手元がしっかり照らされるわずかなチャンスに少しずつ作業を進める。着物が完成するまでにどれほどの時間がかかったかは想像に難くない。
その間、彼女がずーーーーっと「この男を消したい」という気持ちを持ち続けていたとしたら、表面上は何の問題もなく夫婦生活を送っている日中も「私がこっそりお前を陥れようとしていることも知らないで、ばかなやつ、しめしめ」と思って暮らしていたとしたら、男が失踪したときにこんなにぼんやりと途方にくれるだろうか?どうにも我慢ならない男が行方知れずになったのだから、ここは悪役らしくもっと喜んで、せいせいして楽しく暮らしてもよさそうなものだ。

私は、彼女は夫を失うつもりがなかったのではないかと思う。というより、夫そのものについて深く考えていなかったのではないか。
では何について深く考えたのかというと、彼女はある日突然、自分の人生の存在に気づいたのではないかと思います。
今ではない。ここではない。この暮らしではない人生。それが今ではない、ここではないどこかにあると気づいてしまった。気づいてしまったら、もう知らないふりをできようはずもない。

「月の夜ざらし」はいくつかの伝えられ方をしているが、庄屋の娘、一人娘、婿、という言葉が使われることが多い。庄屋の一人娘が婿を取った。この一文には地位と役割と存続の責任が多分に含まれる。彼女がどんな気持ちだったかは語られていないが、その時の彼女には家があり、それを存続させなければならない立場にあったかもしれない。婿に来た男性はこれからの彼女の人生の象徴となるのかもしれない。
どこまでも果てなくはつらつと、身軽に、柵をものともせずに生きることはすばらしいことのように見えますね。だけどどうしても投げ出せないものもある。自分の選択が多くの人の暮らしに影響を与えるとき、一点の曇りもなく清清しい心持ちでいなかったことをどうして非難できるだろう。
ある日突然自我のめばえが少女を襲い、それから彼女はずっと自分の人生について考えていたのだと私は思います。ここではないどこかにあったかもしれない、彼女の失われた人生について。

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「失うつもりじゃなかったのに」という後悔ほど悲しいものが果たしてこの世にあるだろうか。
未来永劫、ずっとずっと一緒にいるつもりだったのに。失うと分かっていれば、もっと大切にしたのに。気づいていれば今生の別れを告げずにすんだかもしれないのに。軌道修正できたかもしれないのに。
だけどどこかのポケットへ入れっぱなしのリップ・クリーム、食べ損ねたチューイングガム、あんなに気に入りだった靴下、初夏に不在を知る日傘、そんなものたちをいつ失くしたかちっとも覚えていないのはなぜなのでしょう。大抵の場合、失って初めて失ったことに気づきますね。ぜんたい、あれはどうしてなのでしょうね。

ところで、失くすと捨てるの違いは何だろう。
この物語の中盤と終末には、大きな変化がある。自らまじないをかけながらも、夫がいつまでも帰ってこないなあ、ふしぎだなあと待っている間、少女はおそらく何も知らなかった。六道の辻で青白い無表情でふらふらと歩く男を見たときにそれは変化した。彼女は自分が夫を失ったことを認識し、さらに自分が自ら失ったことを自覚した。この瞬間、彼女は完全なる喪失を経験し、それを受け入れることで放棄を実行したのだ。「失くす」は自力でコントロールできない事件だが、「捨てた」ものは自分の意思で捨てたのだ。いつか後悔することがあっても、そのときは「捨てる」という気持ちがあった。娘は暗闇に消えていく夫を追いかけなかった。傍目にはただぼんやりしているように見えたかもしれないが、その時彼女ははっきりと意思を持ってぼんやりしていたのである。
寺山修二は「人はだれでも自分の遺失物だ」と言っている。自分で自分をその辺りに置き忘れたり、落としちまったり、探すのをあきらめたり、二度と再会できずに夢見たり、ふとした時に引き出しの奥から見つけたりする。それは人生の一大事ですが、自分で自分を紛失するのはある意味ではとてもインディペンデントなことかもしれないなと思います。自我を掴み取り、ライフワークや理念やよろこびを確立する。夢のような心地でそれらを模索する過程で、彼女は人をひとり消し去ってしまった。
男はどこへ行ったのだろう。男は、どんな人生だったろう。彼については、(婿養子に来るということは長男ではないのかな)という程度のことしか分からない。「夜神の共をする」というのは、死んでしまったということなのだろうか。彼は妻を愛していただろうか。ひょっとして、妻のためなら自分の身を差し出してもよいなどと思っていただろうか?それともとんでもない家に婿に来たためにひどい目に遭ったと思っているだろうか。想像は100でも200でも出来るけれど、真実は絶対に分からない。そして推測には何の意味もない。彼はもういないのだから。それでも彼女の暮らしはライフワークや理念やよろこびと共にただ続いていくのだから。

五里霧中で誰かをめちゃくちゃに傷つけたり、永遠に失ってしまったり、取り返しのつかないことをしてしまうこと、あるいは逆にされてしまうこと。それきり挽回できずに今生の別れになってしまうこと。正直に言うと、そんなことは1mmだって考えないで「今生がだめなら来世でまた会おうね」と曖昧な前向きさを以って処理してしまいたい。喪失のままうつくしく悲しみたい。近頃姿が見えないけれど、どこへ行ってしまったのかなあ、きっと元気でやっているよと微笑みたい。けれども、あなたの乗った電車を見送り損ねるのは、やっぱり私には少し惜しい。見送るなら消失点の果てまで手を振りたいし、見ないと決めたなら汽笛が聞こえなくなるまでまぶたをかたく閉じておく。だけどお弁当と熱いお茶の入った魔法瓶を引っ掴み、同じ列車に飛び乗って銀河の果てまで行けるなら、スケッチ帳を失くしっちまっても気づかないかもしれないね。