7月/口紅とヤバい女の子

日本のヤバい女の子

【7月のヤバい女の子/口紅とヤバい女の子】

●倩兮女

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《倩兮女(けらけら女)》

良い夜だった。男は一杯引っかけてほくほくと夜道を歩いていた。飲み歩いているうちに随分遅くなっていたらしく、辺りに人影はない。
最初は酔いのせいだと思った。誰もいないはずなのに、視線というか、気配というか、とにかく何かが「いる」ような感じがするのだ。
始めのうちは「昔はいくら飲んでもそんなことなかったのに俺も年くっちまったかなあ」などとぼやきながらやり過ごしていたが、振り払っても振り払っても妙な心地がついて来る。だんだん怖くなってきて、男はふと振り返ってしまった。

こういう時に振り返るというのはあまり得策とは言えない。この場合も例外ではなかった。
最初に見えたのは大きな手。男の上半身くらいある掌だ。それが何かを隠している。見えているような見えていないような放心状態の目を凝らす。やわらかく曲げられた女の手は、くちびるを押さえるように蠢いていた。
暗がりに濃く塗られた口紅が光っている。明るい朱色のくちびるがつややかに光っている。
くらくらするような視界の中で、その赤はゆっくりと形を変えていった。両端が持ち上がり三日月形になる。赤い三日月の真ん中にうっすらと隙間ができ、そこからにわかに大きな音が発せられた。
それを聞いた途端、男はもう何もわからなくなってその場で気を失って倒れてしまった。
巨大な女が恐ろしいほどの大声で笑っているのだった。

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「倩兮女」という名前は、シリアスに怖がるにはあまりに冗談めいている。その一方、もしかして絶対に分かり合えないのかもしれないと不安にさせる単純明快さがある。
このふざけた女の子のアウトラインは江戸時代、鳥山石燕の手によってまとめられた。石燕はそれ以前にも散見された「笑う、人ならざる女」のイメージを統合し『今昔百鬼拾遺』に以下のような文章とともに掲載した。

――楚の国宋玉が東隣に美女あり 墻にのぼりて宋玉をうかがふ
  嫣然として一たび笑へば、陽城の人を惑せしとぞ
  およそ美色の人情をとらかす事 古今にためし多し けらけら女も朱唇をひるがへして
  多くの人をまどはせし淫婦の霊ならんか

(中国の故事には塀の外からこちらを覗き込んで男を誘惑する美女のエピソードがあるが、倩兮女もその赤いくちびるを魅力的に動かして大勢を誘惑した淫婦の霊かもしれないことだなあ。)
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突然の「淫婦」という字面に私は面食らってしまった。せっかくまとめてくれた人にこんなこと言うのは気が引けるけど、ちょっと突飛すぎるのでは?しかもこのページ、大した情報がない。一から百までお前の妄想やんけ!と関西人の私はつっこまずにはいられなかった。
大きな赤いくちびるを持っている女の子。確かに絵の中のくちびるは黒く塗り潰され、そこに濃い色があることを表している。
石燕は彼女の微笑みが垣根の向こうの誰か、自分も含めた誰かに向かっていると感じたのかもしれない。半円形に曲げられた赤い口を誘惑の象徴と捉えたのかもしれない。
でも、ほんとうにそうだろうか。彼女のくちびるは誰がために赤いのだろう。
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彼女はとても大きい。
絵の中の彼女は家をはるかに上回る背丈であり、その指は成人男性の腕のようだ。巨大である。素手で殴りかかっていっても到底敵わない。

ところで、大きな人といえば私はロダンの《カミーユ・クローデルとピエール・ド・ヴィッサンの手》を思い出す。
これはロダンの愛人カミーユ・クローデルのマスクとかの有名な《カレーの市民》の一人 ピエール・ド・ヴィッサンの巨大な手を組み合わせた彫刻作品だ。自己犠牲、挫折、ヒロイズム、諦め、無骨さを多分に含んだ男の手が、彼女を守ったり、目隠ししたり、脅迫したりする。(ロダン美術館webサイト

カミーユと違って、この場合、大きいのは女の子の方ですね。
もしも彼女が平均的な日本人女性の身長だったら、その笑いの持つ意味は今と全く異なるものになると私は思います。
同じサイズの者同士は対話できる。前回のコラム《夏服とヤバい女の子》で書いた山姫とは、「笑い“合う”」という図が成立する。自分に向けられた矢印を受け入れられる。
道ばたで人間サイズの倩兮女が爆笑していたら、出くわした人はその笑いの原因を想像し、自分へのアプローチだと信じて笑い返すとか、嘲笑を感じて怒りを覚えるとか、何か楽しいことがあったのかな?と周囲を探すなどの行動を取るだろう。カミーユとピエール・ド・ヴィッサンだって、二人が同じサイズであれば睦み合う男女の図に見えるかもしれない。大きな手による目隠しはかわいいじゃれ合いになるかもしれない。

しかし「大きさ」によってそれは妨げられる。
パフ・ザ・マジック・ドラゴンと少年ジャッキーの友情の例もあるが、進撃の巨人の例もある。確固たる信頼関係が築かれていない限り、あまりに開いた体格の差はそのまま力関係の差に繋がると考えられる。メガロフォビアという言葉があるように、どんなに抵抗しても勝ち目のなさそうな相手には反射的に恐怖を感じてしまう。

それなのに――ミニサイズの人間なんて体重をかけるだけでひねり潰せるような強いポテンシャルを秘めながら、彼女は直接的に手を下してはこない。笑っている理由も教えてもらえない。何を考えているかも予測できない。ただ圧倒的な質量の存在感と謎を持って目の前にいる。
私たちはこのミステリアスな女の子が気になって仕方ないのに、彼女ときたら少しも構わず笑い続けているのだ。
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彼女は口紅を塗る。くっきりと赤く縁取られた部分は、肌の他の部分に比べて明らかに強調されている。手の甲で口元を覆っていてもとうてい隠せるものではない。
そう、彼女は「手で口を隠している」。

口は笑う、話す、食べる器官だ。人間の躍動の源泉だ。
そして赤色は人間の肌を極限まで強めた色だと私は思います。日本人の多くは、くちびるは何もしなければもっと淡い色ですね。
体中を駆け巡る血の色、情熱の炎の色を私たちはいつも皮膚で隠している。隠しているのに、わざわざ赤いマーカーを引いてその存在を思いださせる。それをまた手で隠す。アバンギャルドとコンサバティブがやわらかなパイのように層を作っている。
確かにあるのに隠している。隠しているのにはっきりと主張している。それでもやっぱり引っ込めてしまう。だけどどれだけ押さえつけても、カッと赤いくちびるが燃えている。笑いは真っ赤な出口を通って、彼女の中からどんどん溢れてくる。隠しても隠し切れない彼女の熱誠がここにある。

私も石燕のイマジネーションに倣って、こんな想像をしてみます。
――彼女は今日、初めて口紅をつけてみたのではないか。今日初めて自我が生まれたのではないか。彼女は意思表示をしようと思い立ち、情熱を強調するためそのくちびるに赤い色を塗った。それから鏡を見て面映くなり、大声で笑った。
人々は驚いて気絶したり逃げ出したりしたが、彼女は目の前にいる誰にも関心を持っていなかった。正確に言うとそれどころではなかった。だって、忙しかったのだ。自分の中に芽吹いていた熱き血潮をもっとよく観察することに。その爽快さに酔いしれることに。
自分の中から沸き起こる感情を口から放出しながら、少しの戸惑いが手を翳してその出口を隠すように促した。
しかし、発作のような笑いの前ではそんな動作は無意味だった。彼女は瑞々しく笑い続け、三日月形の赤いくちびるはずっと両端を空へ向けていた。

誰も敵わないくらい大きな力を秘めたくちびる。私は赤いオープンカーに山ほど口紅を積んであなたにプレゼントしたいけれど、残念ながら免許がないので直接持っていくね。世界中のリップ・スティックを並べておくからお好きなのを選んで。そしてところ構わずその朱唇をひるがへして、大きなキス・マークを街中にぶちまけてほしい。