8月/別れとヤバい女の子

日本のヤバい女の子

【8月のヤバい女の子/別れとヤバい女の子】

●乙姫(浦島太郎)

泳ぎに行きたくて居ても立ってもいられない日々です。雑誌なんかもう、Instagramに最適な浮き輪やら水着やらでお祭り騒ぎです。みんな海のことを考えている。魅力的で恐ろしく、優しい海のことを。

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《浦島太郎》

昔むかし、浦島太郎という漁師がいた。ある日魚を釣りに行った浜で子供が亀をいじめていたので、かわいそうに思い助けてやった。亀はぜひお礼をしたいと言う。浦島太郎は亀の背に乗せられ、竜宮城へと連れられていく。
そこはとても美しかった。一人の女性が太郎をもてなすために前へ出た。彼女の名は乙姫といった。
きれいな着物、うまい酒、豪華な食事。いつもひらひらと鮮やかな衣装を着た魚が躍っている。隣には素敵な恋人。いつしか懇意になった太郎と乙姫は毎日を楽しく過ごした。幸福な日々だった。
ふと気づくと三年が経っていた。太郎は故郷に残してきた家族が心配になり、一度里帰りしたいと乙姫に告げた。彼女は悲しみ、去り行く恋人に手土産をひとつ渡した。
「この玉手箱を持っていって。でも決して蓋を開けて中身を見ないでね。」

太郎は元来た海を亀に連れられ、懐かしい浜辺に降り立った。懐かしい。懐かしいのだが、何か違和感がある。記憶にないものがある。そして記憶にあるものがない。
見たことのない松林や船着場を通って家へ向かう。そこには何もなかった。家の影さえなかった。ただまっさらな地面が広がっていた。
通りかかった村人を捕まえ、太郎はここにあった家を知らないかと尋ねた。村人は露骨に怪訝そうな顔をして言う。もう何十年もここに住んでいるけどそんなもの見たことはない。
彼が故郷を発ってから、実に三百年が経過していた。もうここにはだれもいない。親兄弟も、親戚も、幼なじみも、みんな死んでいた。
唯一手元に残ったのは乙姫に手渡された玉手箱である。寄る辺のない太郎は言いつけを破り、そっと箱を開けた。白い煙が立ち昇る。視界が霞む。風がもやを吹き消すと、そこには一人の老人が立っていた。
浦島太郎は年老いた姿でよろよろとどこかへ歩いていった。

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浦島太郎は日本で最も有名な男のひとりだ。彼の物語は日本書紀に始まり、万葉集、御伽草子とリメイクにリメイクを重ねられ、様々なストーリーを派生させていった。
時代によって設定がどんどん変わっていく。特にイントロとアウトロの変化が顕著だ。ざっとまとめただけでも以下のようなバリエーションがある。

・浦島太郎は浜でいじめられていた亀を助け、お礼に竜宮城へ招待された。
・浦島太郎は漁で釣った亀が女性に変身した姿に興奮を感じ、恋仲になった。

・浦島太郎が玉手箱を開けるとその姿はたちまち老人になり、彼は乙姫の元に帰る事も出来ず泣きながら彷徨った。
・浦島太郎が玉手箱を開けるとその姿はたちまち老人になり、その場で倒れて死んでしまった。
・浦島太郎が玉手箱を開けるとその姿はたちまち鶴になり、羽ばたいて乙姫の元へ帰った。

どの類話にも大抵入っている要素は以下である。

・浦島太郎が来訪者に誘われて故郷を連れ出されること。
・しばらくの間竜宮城で楽しく暮らすが、途中で乙姫のもとを去ろうとすること。
・乙姫から玉手箱を渡されること。

私はこの物語は二つの点において、とても風変わりだと思います。一つめは「見るなの禁」として。二つ目は、「異類婚姻譚」として。
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「見るなの禁」として違和感を感じるのは、禁じられたものが、禁止された本人の持ち物であることだ。普通は禁止した人のものや、禁止した本人の姿を隠そうとする。
箱には何が入っていたのか。蓋を開けると白い煙が立ちのぼり、彼は今までとは違う存在に変身した。多くの場合彼はこの変身で老人になるのだが、それは不幸なことだろうか?年を取るのはネガティブなことだろうか。

私たちの日常では、こういうことは頻繁に起こっています。
三年なんてあっという間に経ちますね。自分がぼんやりしているうちに、周りがどんどんイケてる感じになっちゃったと感じる。自分だけが変わることができず、周りの時間ばかり経ったように感じる。
三年をどのように過ごしたかちっとも思い出せないし、買っておいて冷蔵庫で腐らせてしまった果物のような喪失を感じる。その三年は、絶対に戻ってこない。

先人たちが繰り返しリライトしてきたように、《浦島太郎》を現代風に書き直すと、次のような感じになるのではないか。
「――人間離れした魅力のあるパワフルな女の子にメロメロになってしまって、彼女の奔放な生活に全てを捧げているうちに気づいたら三年が経っていた。このままではダメになってしまう気がして、自分から別れを切り出した。
恋人に夢中になって何年も仕事を放り出していた俺に周囲の目は冷たかった。友達は皆、自分のやりたいことを見つけてバリバリやっている。子供が産まれたやつもいる。
まるで知らない人を怪しむような彼らの表情に取り囲まれ、俺は自分が急速に老けていくのを感じていた。俺は若き日々を浪費してしまったのだろうか?」

こう書くとただ青春を棒に振った男の話のようだが、私はこれをつらい話だとは考えられない。
亀に誘われるままに故郷を出てきたとき、男に主体性はなかった。誘われるままに竜宮城へついて行き、誘われるままにそこへ留まった。
保護されて、愛されて、導かれることはとても快適で好ましい。ただし、生涯それを楽しみ続けることができるならの話だ。浦島太郎にはそれができなかった。優しくて純朴な男は自分の家族、自分の清々しい人生に目を向けてしまった。

玉手箱は彼の三年間(三百年間)ののちに手元に残った唯一のものだ。
乙姫から渡されたとは言え、ある意味でこれは元から彼のものだった。そこには彼の本質が入っていた。それは乙姫の魅力で存在を忘れていたもの。彼の時間。彼のリソース。彼の自我。彼の野心。
「帰りたい」「この関係を変えたい」と言い出したとき、彼は人の魔力にメロメロになるだけではなく自分の魔力を模索し始めたと言える。太郎は三年間思考停止していたツケを払い、自分の中身と向き合い始めた。
彼はどこへ帰っていったのだろう。AからBへ来てAに戻ったのではない。明らかに変化してCに至った。CはAに似ていたが、彼の目には全然違って見えた。失ったものも多くあったが、彼は世界の本質を捉えた。
彼の自我は今初めて芽生えた。彼の精神は老成したのだ。
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…と、大体が男の話で占められているが、女の子の方はどこから来てどこへ行ったのだろう。

二つ目の疑問は「異類婚姻譚」についてだ。
女の子が最初から異類だとバレている異類婚姻譚――これを婚姻譚と呼ぶとすれば――これは彼女が最初からデモーニッシュな女の子であるとバレている珍しいケースだ。
異類婚姻譚の多くのパターンではどちらかの正体がばれて関係が破綻する。劇中で、彼女は最初から人間でないと分かっていた。
その点で彼女に後ろめたいことは一つもなかった。隠さなければならないことはなかった。彼女はいつも自由で、はつらつとエネルギッシュだった。

《浦島太郎》を読むとき、「なぜ親切にしてくれた(または恋人だった)人物をひどい目に遭わせるのか?」という疑問が必ず湧き上がる。
乙姫の正体は既に明白であり、これ以上悪として活躍する余白は残されていない。それなのに彼女は主人公を陥れるような行動を取った。乙姫はほんとうに浦島太郎を騙そうとしたのだろうか。
たしかに、玉手箱を開けることが自我の芽生えだと考えると、それを禁止することは「自分自身を見つめるな」というのと同義のように思える。
もしかして、元彼がFacebookで自分より幸せそうにしているのがムカつく…というようなやつだろうか。この物語は理不尽な仕打ちについての教訓だという解釈もある。
だけど私には、彼女が悪だとはとうてい思えないのだ。

浦島太郎がタイトルロールである以上この物語では彼の変化に焦点が当てられる。だけど竜宮城は浦島太郎がやってくるより前から存在していたはずだ。
乙姫が一人の男を騙して不幸にするためだけに整えられた設定だなんて、侮辱である。彼女は決して、男を破滅(または成長)させるためだけに存在するサブキャラクターではない。
彼女には彼女の暮らし、使命、文脈があった。だから故郷へ帰ると言い出した男を守ってやることも、怒りに任せて抹殺することも、一緒に付いて行くこともできなかった。
彼は地上へ、彼女は海の底へ。偶然出会って一度共鳴した関係は、お互いの使命を優先することで途絶えることとなった。

こちらも現代風に書き直してみると、次のようになるかもしれない。
「――とても控えめで物静かな人だった。私はやりたいことがたくさんあって、それに彼が賛成してくれるのが嬉しかった。彼とは長く付き合ったけど、終わりは一瞬だった。僕にもやりたいことができたから、東京へ行こうと思うんだ。
私には、彼と一緒に東京へ行く気は全くなかった。まだここでやりたいことが山ほどあったから。だけど引越しの荷造りをする彼を見ながら、この人が(もっと早く行けばよかった)と思ったら悲しいなと考えていた。
どうか、一緒に過ごした時間を浪費だったと思わないで欲しい。私と一緒にいたことであなたが後回しにした人生の主題を深く知れば知るほど、あんな時間を持たなければよかったと思わないで。
ほんとうはあなたの成功を心から祈っているけれど、これくらいの意地悪はゆるしてほしい。あなたはどのみち自分の意思で箱を開けるだろう。」

彼女は今も海の底で黄金に輝いている。巨大な海が悠々と横たわり、昔一緒に過ごした人と私を隔てている。砂浜が灼熱に輝き、若い人たちの肌を焼く。歓声が上がる。カラフルな浮き輪。みんな海のことを考えている。もちろん私も、つめたいラムネの瓶を片手に考えている。君と過ごした夏を絶対に忘れない。あれは心から素晴らしい夏だったよね。