10月/証明とヤバい女の子

日本のヤバい女の子

【10月のヤバい女の子/証明とヤバい女の子】

●山姥と百万山姥
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《能「山姥」》

都に有名な遊女がいた。彼女はスターだった。「山姥」の曲を歌わせるとたいそううまく、人々からは「百万山姥(ひゃくまやまんば)」というあだ名で呼ばれていた。

ある時、百万は親の十三回忌のために善光寺へ詣でようと、従者とともに旅立った。
越中・越後の辺りへ辿り着いた一行は、山を越える道を里の男にたずねる。
男は上道、下道、上路道があると答え、彼女は上路道を通ることにする。里の男は道案内をしてくれると言った。

しばらく歩いていると、まだ昼下がりだというのににわかに日が落ち、真っ暗になってしまった。
「もし、どうなさいました。ああ、道に迷われたのですね。よかったらうちへ泊まっていきますか」
困惑した一行の前に突然一人の女が現れ、自分の庵へと案内してくれた。
親切だが、不審な女だ。
庵に着くなり、彼女は都で名高い百万の山姥の歌を聞きたいとせがむ。百万のことを知っているという。
「なぜなら、私こそがお前の歌っている山姥、本物の山姥だからだよ。お前の歌を聴くために私が日を暮れさせた。そしてお前をここへ連れてきた」
夜が更けたら真の山姥の姿でまた現れるから歌ってくれ。そう言い残し山姥は消えた。

従者は里の男に山姥の正体を聞き出そうとするが、男は全く核心に触れず、あれこれとふざけてはぐらかしてしまう。
「そら、どんぐりが腐って山姥の目になったのかもしれません」
「家の木戸が苔むして、蔦が這って鬼女になり山姥となったのかも。鬼女と木戸ってちょっと似てません?」
「いっそ山芋が長い年月で変化して山姥になったのかも」

深夜。待ち受ける百万に風が激しく吹きつけ、山姥が恐ろしい姿で現われる。
(ああ~どうしよう…山姥の歌で有名になった私が、その山姥に一口で食べられたなんて噂が立ったら最悪すぎる…)
百万は卒倒しそうな気持ちで、それでも歌い始めた。
「♪…善悪に苦しみ、足を引きずって、山姥が山を回るのは苦しいことだ…」

百万の歌に合わせて本物の山姥が舞う。舞いながらぽつぽつと話す。
彼女は激しく踊り、山の四季を、仏の教えを、そして自分のことを語った。
そうして辺り一帯を踊りまわって、次第にこだまするように遠くなり、やがてふっと山陰に見えなくなってしまった。

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先日、京都の観世会館でこの《山姥》を観ました。
能について右も左も分からないなりに一生懸命観ていたのですが、途中で「何これ?」と思ったところがあります。山姥が現れた後、里の男が突然ふざけだすシーンです。

「どんぐりが腐って山姥の目になった」
「木戸が腐って鬼女になった…駄ジャレ的な感じで…」
「山芋が山姥になったんじゃね?山だけに」

死ぬかもしれない危機に直面しているのに、男は訳の分からないことを言ってのらりくらりとかわす。
私は最初、ここはギャグパートなのかな?と思いました。しかもこのシーン、やけに長い。そのギャグってそんな引っ張る意味あるの?というかそのボケ、今、要る?そんな空気じゃなくない?
さっぱり分からない。古文の授業もろくに聞いていなかった完全なる能初心者である私は、もう勝手に想像することにした。

このギャグのような台詞には共通点がある。
鬼女に、山姥に、「なる」という言葉。この言葉が何度も繰り返し使われている。
どんぐりが、山芋が、山姥になる。木戸が鬼女になる。
山姥は初めから山姥だったわけではない。実際にどんぐりだったかどうかはさておき、いつかどこかで「山姥」に「なった」のだ。
彼女には山姥に「なる前」と「なった後」がある。そして今は「なった後」だ。

一方、山姥の目の前に座る百万は例えていうなら「なる前」である。鬼女になる前の女。
山姥にとって百万を見ることは、昔の自分を見ることと殆ど変わらない。


もう一つ分からないことがある。
山姥はなぜ、最後には気持ちを収めて山に消えていったのだろうか?

彼女は怒っていた。劇中、「山姥を題材にして名声を得ながらもその真の姿を気にもとめようとしないとは何事だ!」という台詞もある。
この怒りはもっともである。自分のことをたいして知りもしない若い人間が自分のことを題材にして人気を得ている。その元ネタに対して敬意を払っている様子もない。
太陽を沈め、昼を夜にするほどの力の持ち主だ。ムカついたら少女一人殺すくらい何のことはない。だけど山姥はそうしなかった。結果的に百万は許され、山姥は心をいくらか慰めて去っていった。
なぜ彼女は百万の歌を聴きたがったのだろう。

私は、山姥が「語り手」を求めていたのではないかと思います。

ひとりの女性が山姥になった経緯は《山姥》の中では語られない。だけど山姥に「なる」ほどの出来事が彼女にはあったはずだ。
善悪に苦しみ、足を引きずって、山姥が山を回る。日々が過ぎ、「あの頃」のことがだんだん現実味を失ってくる。
あれは本当にあったことだったのだろうか。私の想像上の出来事、思い出、人物、言葉だったのではないか。
葉の影が風に揺れている。山は美しい。美しいけれど、あの日を肯定してくれる者はここには誰もいない。

そこへ百万がやって来る。
正直に言うと、誰でもよかった。ただ物語の存在を証明してくれる第三者であれば、誰でも。
物語の存在、消しがたい思い出、忘れがたい会話、失いがたい記憶、それらすべて。
私は確かにここにいた。気のせいなんかではなかった。
この女の子が歌ったことによって、それは紛れもない史実となった。

ほんとうは誰の手も借りずに溌剌と暮らしていられたらよかった、とは思う。誰が私の物語を否定しても、忘れ去ってしまっても、それは確かに存在していたと強く言うことができばよかった。誰の力も借りずに生きた証を残すことができれば、それが一番よかったよ。
そりゃあ、もちろん、よかったけど、目の前で証明してみせられたときに「ああ、」とほっとした気持ちになることをいったい誰がとめられるだろう。

《山姥》が作られた15世紀頃からこの葛藤があったのかと思うと、ちょっと笑ってしまう。6世紀もの間、わたしたちはストーリーテラーを求めているのだから。
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話は変わるが、能にはもう一人、「百万」という名前の女性がいる。彼女はタイトルロールであり、能《百万》に登場する。
《百万》はこのような物語である。

―― 奈良県、西大寺にて一人の男が小さな子供を拾う。男はその子供を連れて京都の清凉寺へ出かける。
清凉寺には女が一人いて、念仏を唱え踊り狂っている。彼女は名を百万といい、夫に先立たれ、自分の息子と生き別れになってしまったために狂ったのだという。
子供はひたすら踊る女を見て、彼女が自分の母親であることに気づく。男児の話を聞いた男が憐れに思って二人を再会させ、その後親子は元のように一緒に暮らしたという。――

《百万》の百万が《山姥》の百万と同一人物かどうかは分からない。
偶然同じ名前だっただけかもしれないし、物語を関連付けるためにわざと同じ文字が与えられたのかもしれない。
もしかして百万が山姥に出会ったあとで家族をなくして狂ってしまったのかもしれないし、はたまたパラレルワールド――子供と清涼寺で再会できなかった世界線の百万が狂ったのちに山姥となり、山中で昔の自分と巡り合ったのかもしれない。
二人の百万から、あらゆる世界線が想像される。

これらの物語は観阿弥・世阿弥によって整えられ語り継がれてきたが、取りこぼされたストーリーはまだまだ無数にあっただろう。
今この瞬間に伝承されていない物語は、あったかもしれないし、なかったかもしれない。あったことが証明できないように、なかったことも誰にも証明できないのだ。

あったかもしれない、なかったかもしれない世界線の女の子たち。
越後の山中、善光寺。あるいは、清涼寺。いっそのこと、月曜日の特急列車。金曜日の居酒屋。建てたばかりの家。深夜の誰もいないオフィス。住んだことのない街。
そこに立っている無数の百万たち、山姥たち。
この十人、百人、千人、一万、十万の、
百万人の女の子たち。

でもやっぱりどう考えても、確かにわたしたち、いたよね。