最後に物語に没頭したのはいつだっただろう。私は自分のつま先を、その先に触れている外の世界をちゃんと感じられているだろうか。
ここのところ、物語と身体というふたつの言葉がぐるぐると私の中を巡っている。そのどちらもを長い間放っておいている気がしてならなくて。
私たちはSNSのアイコン越しに見るその人たちが残す現在地や呟きや写真、動画を永遠に過去と思えない。ねじれた現在を生きている。その人が過去に感じたこと、考えたことに過ぎないものをまるで今この瞬間に彼・彼女がそう感じ、考えているようにしか捉えられない。息するように細かく打たれている「点」はでも、なかなか線になって見えてはこない。
更新されないSNSでは彼らは生きていても、死んでいても、同じように見える。現実ではそれなりに元気に過ごしているのかもしれない彼らの、不穏な投稿からは悪い予感しか生まれない。そこに書かれていないことを読み取るのは難しい。どんどん流れるタイムラインに想像力を働かせる余地はない。
そこまで考えて悲しくなったとき、私は物語を思い出した。明らかに現実ではない、フィクションの世界。一番最後に熱狂した、「夏の王」(O.R.メリング 著)のケルト神話に纏わる妖精と人間のお話を。
フィクションだとわかっていても、すっかり読み込んだあとには本の中の世界が実在するような気がしてならなかったり、見えないものも見えていないだけだと考えたりする。ムーミンだって、そう。フィンランドにムーミンに会いに行ってついぞ会えなくても「タイミングが合わず会えなかった」と思うだろう。あるいはその土地の草花とか、小さな生き物を見て「ヤンソンにはこれがムーミンに見えたんだな」と思うかもしれない。
胸のなかに物語を持っているとき、私たちは簡単に失望しない。悲観するような場面に出くわしても、いい方向に想像する力を持っているから。そういうとき、自分たちの頭の世界で誰かが「生きていても死んでいても同じ」なんてことにはならない。きっと元気で自分の人生を生きていてほしいって願うことができる。
今を発信し続ける意味合いの大きいSNSで、逆に失われた気のする現在や実像。それと一緒に感じられなくなったのが繊細な身体感覚とスケール感だ。自分自身の身体をちゃんと知覚できてないことの淋しさと、こんなに未知なものが自分の一部であること、というよりも自分こそが未知なる身体の一部である可笑しさを同時に感じた。それは、ダンサーの友人が急に増えたことで初めて考えはじめたことだった。
彼女たちは身体をつかって感情を表現することも、景色になることもある。「躍動」や「風」のように人間以外のものに見えることもたくさんある。だけど、彼女たちが彼女たちであることを、踊りの前も最中も後も止めない。
ひとつとして同じ身体はなく体力も有限で、自分の身体のスケール感からも逃れられない。それらと向き合い、ひとつひとつの動きに集中し、床や天井や一緒に踊る人たちとの距離や感触、引き合ったり反発する関係性を踊りに込める。舞台上のものは明らかなフィクションとして観客の目に映るのにも拘らず、ダンサーが生み出す舞台には生を感じる。物語とダンサーの共通点だと思う。
このあいだ、舞台芸術の祭典「フェスティバル/トーキョー」の今年のテーマが「からだの速度で」だということを知った。ダンスに触れてから、自分にしか当てはまらない身体のスケールとスピードがどんなものなのか気になって仕方がない。私の場合は踊りじゃないかもしれないけど、踊るかわりに自分を永遠鼓舞しつづけられる方法を考えている。
加速するスクロールの世界の片隅に籍を置きながら、できれば、ひとつかふたつの物語をいつも携えて。