For_apartment  Ⅱ

第5期(2012年10月-11月)

あした、もし、晴れたら。

その位の、畳んで掌に収まるほどの、ちいさな祈りのようなもの。

こんばんは。浅田泉です。
・・・というのも、少し寂しいのですが、これで最後です。
改めまして、藤田莉江です。
この度、ご縁があって第5期アパートメントの土曜日を担当させて頂いていました。
いつもは、主に写真という分野でアマチュア活動をしています。

先週、種明かしのような事をしました。
けれど、きっとお読みいただいている方のほとんどがちんぷんかんぷんになってしまっているであろうことはわかっていて。
申し訳ない気持ちもありつつ、区切りが付かず、前回あのようなところで切って、I(前半)としてしまいました。

今週初めてわたしの記事を読んで下さっている方は、更にちんぷんかんぷんかもしれません。
改めてはじめましてをしたところで、わたしのことをご存じでいらっしゃる方は少ないかと思いますが、
どうしても書きたい事、というものがあって、普段名乗っている名前以外の名前をこれまでここで使わせて頂いていました。

これは、変にサプライズのような事がしたかったわけではなく、先週も言いましたが、書きたいことがあって。
その為に、自分以外の誰かとして自分の話を聞いて貰えたら、というような試みをさせて頂いていました。

名前だけではなく、プロフィール写真はわたし本人の写真でありますが、ご覧の通りの髭で、男装をしています。
本当は、「わたし以外の誰か」とか、「あなたの知らない誰か」とか、そういうものになれればそれで良かったのですが、
そうするのであれば容姿は自分からなるべく遠い方がいいかな、と。
けれど、誰かにお顔を借りることや、no imageにはしたくなくて、ひとつこういう選択をしたのでした。

わたしを知って下さっている方はきっと少ないけれど、その人に解らないようにという事もですが、
二ヶ月弱をほぼ一方的な発信によって、何度かこちらでお付き合いいただいた方の中にあたらしい人格としてヒトガタが生まれること。
そして、消えること。しかも、また他の誰かに合算されるようなこと。
そういうちょっとむちゃくちゃな事を体験をしていただく事が、自分の伝えたいことを伝える事に、ほど近いところを案内できるのでは
ないかと思ってのことでした。
先入観の認識と破壊、再構築の体感、というと、スッキリしますが、実際はそんな上手にご案内できなかったように思って反省しています。

書きたかったのはそこなのですが、チャレンジすると決めて、自分の文章能力を踏まえるとえらく大風呂敷を広げた自覚はありました。
ですが、これは自分のブログなどのテリトリー内ではする事が出来ないことで、ここでは出来るかもしれない事だった為に、書かせていただくことにしました。
結果は、この通りで、うまくはいかなかったのですけれど。

ここでは、わたしの事を、普段の文章から文体もそう違わず、実際に思っていること、感じていること、書きたい事を極力そのままに
書いてきたつもりです。
嘘のわたしで、ほんとうのわたしの事を書いてきたつもりです。
もともと知られていない人の前には、先入観というものはあまりないのだと思うのですが、存在しないものとして存在する
というアウトラインの曖昧さを自分自身体感しながら書くということもひとつの理由としてここにもっていました。

先入観をそうまでして取っ払って伝えたかったことは何か、と、聞かれたら、それは、

「(このくらいのことでもしないと)本当に言いたい事というのは本当には言えないと思う」

ということです。

これまで、ここで書いてきた文章の曖昧さにも準ずる理由のようなものにもあたります。

曖昧であることでなんとか含有できる、そういうことがあります。

わたしがここでこれまで書いたような、かすれたような曖昧さで時々文章を書くのは、そうでないとくるむことが出来ない事があるからで、
むやみに曖昧にしている訳でもないつもりです。

じゃあ、本当に言いたいことのその中身は何なのと聞かれると思うのですが、ここは書いてみれば、書けば書くほど、やはり遠のいてしまい、
具体的な文章にならないのです。
直接的に書いてみる挑戦も、しなかったわけではないのですが、書いてみて、それがどう考えても有意義な文章として成立しなかった事が、
最終的に具体的に書ききることをしなかった理由です。

その核心といえば、言いたいことを言えない苦しさのこと。
先入観なく、ただ知って貰えるよう言う事の難しさについて。
わたしがわたしのまま語ると、それは読む人に正しく理解されない1番の原因になる事という事があるのだということ。
そんなことなのですが、そうに違いないにもかかわらず、こう書く事ですら、一歩ずつ核心から遠のいているように感じます。

「わたしがわたしのまま語らない、それでいてわたしのことを知って貰う。わたしと気付かれずに。」という事が、
先入観の認識と破壊、再構築の体感を通して、やっと出来る気がした一番近く のように思えました。

ある意味での比喩であり、感覚的にもニアリーイコールでしかない上に、そういう伝わりにくいかたちをさせてしまいましたが、
この形でもし聞こえた人がいれば、もうそれは伝わったということにもなりえるくらいの意味はあると思っています。

うまくいえないのに、そういうこと、というのは卑怯なのですが、そういうことです。
解りにくい文章でしかないことは承知なのですが、託すようなことしか、今のわたしには出来ませんでした。
それでも、託したい事である、というところがこの二ヶ月間の気持ちでもありました。

無音の再生。

雨の隙間から明るい空を見上げるためのにわか雨。

それが作る事で伝えたいひとつのこと。

今まで、写真の話を書かず、ただ「つくること」としていたことの意味は、プロフィール画像と同じ理由もありますが、
わたしの中で、大切にしたい事のひとつである写真についての言葉は、やはり「泉」には喋らせることはできません。

未だ、こうだと言い切れない弱さからの逃げで、人前で主張することが正直怖いと思っている部分もあるけれど。

ですが、またいつか、機会があれば、写真のことも話せると嬉しいなと思います。

セルフポートレイトのことも。

山盛りになってしまうから、今回は書けないのですが、少しだけ。
先週載せたセルフポートレイトは、「そこにもし、今はもう傍にいないあの人が居たら」という自分の顔を見てみたくて撮った2010年のものでした。
そして、ここに書かせていただくにあたっての自己紹介に宛てるための撮り下ろしとして、今、そのセルフカバーのようなことをしました。
すぐに言葉では答えを書いていますが、泉が撮ったようにも見えるかもしれないのも、今回はおもしろいかも、と思って。
テーマはそればかりではありませんが、時々自分で自分を撮っています。


2010.8

このかたちで、幻影のように流すのは 弔いと、慰み。

名前を一つ捨てたこと。

予想以上にうまく言えなくて悔しいけれど、苦しい話になってしまったけれど、おかげさまでひとつの区切りをつけさせていただけたと思えています。

纏まりきっていない部分も多々ありますが、核心に寄ろうとすれば寄ろうとするほど外れてゆくという部分がどうしても出てきてしまい、
ここで筆を置く我が儘をお許し下さい。

最後だけは極力具体的なお話で済ませたかったのですが、そうできなかった。
乱筆乱文のうえの長文、すみませんでした。伝えたくて、寄り添えなかったところがあることも。
もしか、いつかどこかで、なにかのきっかけに思い出していただいて、「こういうことかも」と、思って下さる事があれば、嬉しく思います。
そういうささくれくらいの引っかかりが、等倍の大きさだと思っています。

「できた」ことは小さすぎるかも知れませんが、ここで考えることが出来たこと、少し、自分を皆様に知っていただけたこと、嬉しかったです。
誰の名前で、何を書いてくれてもいいよ、と、言ってくれた良太君とかおりさん、そしてお付き合いいただいた皆様に深く感謝いたします。
またどこかでお会いできますように。

藤田莉江(浅田泉)