入居者名・記事名・タグで
検索できます。

2F/当番ノート

光の粒

当番ノート 第6期

一度死んだことがある。

ブラックアウトもしくはホワイトアウト。
そこは「何も無かった」。

「入院しますか?」
その1週間前、私は先生に訊かれた。
「家族と相談してから決めます。」
そう答えて病院を後にした。
その病院には何日か後に救急車で運ばれることになる。

やけに音がうるさくて落ち着かないのです。―――それがその時先生に相談した内容だったと思う。
その時私に与えられていた病名は「うつ状態・解離性障害」だった。
いわゆる「うつ病」は「うつ病」と病名がついて診断されることはまず無いと言う。
少なくとも会社を休むための診断書には「うつ病」と記載されることは無い。
「うつ病」というのはこんなに有名になっているのに、そんなふわふわしたものなのだ。

幾つかの悪い要因が重なった。と思っている。
一度堰が切れると、「坂道を転がるように」悪くなった。
飲む薬だけがじゃらじゃらと増えた。

私がその状態で居たのはほぼ3年間。
娘が1歳から4歳になるまでの間だった。
お腹をすかせた娘に夕飯どころかおにぎりを握れなくて死のうとしたことがある。
台所の包丁で自分を傷つけた血を娘がタオルで一生懸命拭いていた、あの時が一度目の修羅的山場。

二度目はその死んだ時。だ。

解離性障害、と言われたそれは私から記憶を砂消しで消すみたいに力づくでごしごしと奪っている。
覚えていない、ということはそんなに恐ろしくない。迷惑をかけたたくさんの人に申し訳ないとは思うけれど「恐ろしい」とは別だ。
それより「恐ろしい」のは「今この時も私は忘れてしまうのかもしれない」ということだ。
どんなに悲しくても、どんなに楽しくても、その感情の深さとは関係無しに私は忘れてしまうかもしれない。
それはすごく怖いことだった。
私の3年間は頭の中で壊れたDVDの早送りのようになっている。
場面だけはあるけれど音が無い。順番があやふや。ごっそり抜けているシーンがある。

だからあの時何故入院しなかったのか、自分で覚えていない。
とにかく入院はしなくて私は家で過ごしていた。
そして何がきっかけかわからないけれど、お薬を600錠ほど飲んだ。
それはお薬の量じゃなくて、ご飯の量じゃないか、と思う。
風邪薬、痛み止め、下剤、お医者様から出されていた薬。
家の中にあるあらゆる錠剤を「食べた」。

そして心臓が止まった。
ブラックアウトもしくはホワイトアウト。
そこには何も無かった。

集中治療室の前で「覚悟をしてください」とお医者さまに言われた夫の人は「覚悟なんかできるか」と思ったそうだ。

2日ほどして気がついた時、私は手元のノートに「概ね○」とだけ書いてまた眠った。
何がマルだ、何が概ねだ、と今となっては思うがその時はそんなに悪い気分ではなかった。
大量に飲んだお薬の離脱症状のせいか、感情の揺れがすさまじかった。
余計な電話をかけぬよう携帯を夫の人に預けた。
家にだけ電話をかけられるよう、電話に使える病院のカードを1000円分だけもらった。
落ち込みの後に来る万能感がすごくて世界が全部スローモーションに見えた。
その変な万能感のせいで夜中に家に電話をして「1か0か」とだけ言って切ったりした。
電話を取った夫の人はそれを聞いて「とうとう気が狂った」と思ったらしいのだけど、私は世界の真理を探し当てたみたいな気持ちになっていて「これは絶対に伝えなきゃ」と思っていた。
その時だったらスピッツの歌じゃないけれど空も飛べると思った。
病棟は大きな病院の最上階にあって。窓がもう少し開いたら飛び降りていたかもしれない。
自分は何でも知っているのにそこにいるのが不思議で、でも同時に色んなことがわからなくなっていて。
奇妙な行動をたくさんとった。

例えばガラスがそこにあるかどうかがわからなくなってスリッパを病棟の窓にぶつけたり。
扉があるというのが不思議で他の病室の扉を開けたり閉めたりを繰り返したり。
廊下の端から端が自分の人生であるという喩えを思いついて1時間かけて歩いたり。
どれもおかしいのだけど、どれも自分の心の中では理由があって筋が通った行動だった。

その奇妙な行動はどんどんとエスカレートして私は病棟を脱出するようになった。
総合病院だったそこは産婦人科棟やもっと他の重症者が眠る棟もある。
私はそこまで出張していくようになった。
自分のいる世界が薄っぺらで、そこに生と死があることを確かめたくて。確かめなければ気が済まないようになっていたのだ。
と言うのは心の声で、そんな説明を私は誰かにすることは無かった。
私は喋れなくなっていた。
喋る必要を自分の中で失っていたのだ。

そして私は度々の脱走を理由に強制退院させられた。
家に戻っても、私は喋らなかった。
そこが現実なのか夢の中なのか区別がつかなかったのだ。
喋らないことで困ることは無かった。
夫の人が私の服を脱がせてお風呂に入れてくれた。
私が眠っては時折びくっと起きてまた「ここじゃない場所」へ行こうとするのを押さえてくれた。

1週間。そんな日が続いて。不意に私は口を開いた。
そこからぐんぐんと私は良くなった。
退院した1ヶ月後。写真を撮り始めた。
坂を転げ落ちるように悪くなったそれは、水が下に流れるようになるべくところに行くように治っていった。
しかし、うつ病は完治というのは無いらしい。寛解と言う。
「永続的か一時的を問わず、病気による症状が好転または、ほぼ消失し、臨床的にコントロールされた状態」。
お薬がなくても健やかに眠れるこの何年間かは私にとって幸福なものだ。

「これだけ苦しい想いをしたのだからやさしい人になれるかな?」と訊いたことがある。
「苦しい想いをして優しくなる人も居れば、もっときつくなる人もいるよ」と言われた。
その時はなんで優しくなれるよって言ってくれないんだ、と憤ったけれど、今はその言葉をありがたく思っている。
どうなるかなんてわからない。
けれど、それを経験した私と経験していない私は全く同じではいられない。

このことを書くのはとても難しい。
書くことによって、知られることによって「受け入れられなく」なることがあると知っているから。
それはやっぱり臆病者の私にとっては怖いことだ。
隠しているわけではないけれど、喧伝することもない。
こういうことがあった、という話。
でも過去形で語ったとしても、それでも。
もしかしたら仕事に影響するかもしれないし、大事に想う人が離れていくことがあるかもしれない。
そういう可能性が0ではないと想う。

でもだからこそ書こうかな、と思った。
口に出して伝えられていない人に。
同じような経験をしている人に。
残念ながら、私たちが住んでいる世界は一度寄り道してしまうと生きやすい世ではなくて。
だけど生きられないわけじゃない。

今うまくやっている自信はないけれど。
私は病気の時もその前も、今も、ずっと人からもらってばっかりで。
返せる自分になりたいんだ。

死ぬのは怖くなかった。能動的に死にたかったかと訊かれたらそうではないけれど、死ぬのは怖くなかった。
今も死ぬことは怖くない。でも自分が死んで人が悲しむのは厭だなと想う。
それにもう少し見ていたい。撮っていたい。書いていたい。関わっていたい。
だから今は生きたい。
綺麗じゃなくても。這いつくばって泥だらけになってみっともなくても。
泣くことがある分、笑えることがあって。
大事に想う人がいるから。これが私の光の粒。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る