手のひらには理由

第9期(2013年6月-7月)

理由
 いらっしゃい。の声に、「ビールと揚げ餃子、冷奴とポテサラに、あとでししゃも」と伝えてからこっち、俺はカウンターでずっと発声はない。
 やっこの角に箸を入れてすぐ、無言で二杯目が出された。点けっぱなしの小さなテレビの中で二塁打を放ち、幸先良く出塁した選手が上気した顔で歓声を浴びているとき、揚げ餃子が置かれた。
 大げさにリードしては塁に戻り、揺さぶりをかけていたランナーは、結局長いあいだ滞在した塁上からベンチへ歩いて引き返した。スコアボードの0が映像に挟まれたあと、画面はコマーシャルに切り替わる。

 結局パターンなんだよ、パターン。ああ、これかって、あらかじめ知ってる様式上で見せ方だけ変える。そうするとさ、一般人はああだこうだといいながら、見せ方に集中してくれんだよね。と、畳席のやつが大声で喋っていた。
 教える手間も苦労もないもんな。と、対面のやつが相槌を打った。
 あつあつのししゃもが出されて、俺はめずらしくレモンをぎゅっと絞って尻尾からくわえた。

 回は終盤。同点のまま8回の裏になり、球数145球を投げてきた中年の星が、投げる前からびっしょりの汗を拭ってマウンドに立っていた。
 空いたジョッキグラスが片付けられて、なみなみと注がれたビールと差換えられると、取り皿に半分かかっていたジョッキの影が、たっぷり濃いものに変わった。
 俺、今日は手に何も荷物持ってないんだわ。ポケットだけ連れてきたんだわ。だけどさ、家には、ひとりごとだって置いて出てこなかったんだ。なんてことを、さ、誰かに話す意味なんてねえよな。と、俺の中のやつが俺の中で演説をかました。
 ポテトサラダにソースを足してみる。
 はじまりは、ああ、まるで空へ落ちるように願いが叶い始めたことなんだよ。天井知らずの落下で、底なしの急上昇。そしたら不安が目一杯羽を広げて、胸には黒いヒビが入った。あとは木切れを打ち付けて、割れるを防ぐことに時間を費やす日々だった。
 ささやかに成功した胸に巣食うのは、ひとつの暗い願望だけだ。
 走り出した車は、いつか止まらなくてはならないし、伸ばした手は、何かをつかもうがつかめまいが結局、おろさなくてはならないという、つまりはそうなる前に早く、大切なものは、大切なものから順に、まだ優しくあれるうちに早くという、そんな影が。

 歓声が上がり、三塁打を打たれた中年の星が、トラブルを抱えた爪を見せながら降板を受け入れた。はじめから投げてきて、もう、勝ちだけはつかない。回は終盤。勝敗を分けるのはこの辺りだろう。その先は見たくなかった。
 もう、全部大丈夫だ。だからもう、俺なんてのも、何もかも。
 箸を置いて、「おやじさん、お会計で」と、しばらくぶりに声を発した。

 店を出ると、ざぁっと一雨やってきていた。タクシーがスピードを落として、のぞきこむようにじろじろとやりながら通過していくのを、やり過ごした。
 店のおやじさんが出てきて、でかい傘を一本差し出して言った。おたくの嬢ちゃんに渡すんだって言って、うちの孫がな、昨日遅くまで折り紙でなんか作ってたよ。
 それはきっとうちのも喜んだだろうな。傘を受け取って差すと、おやじさんが「これ持ってけ」と、無理やり1升瓶を手に提げさせた。
 両手、ふさがっちまった。ポケットだけ連れて、もう手荷物だとかなんだとか、ぜんぶ手から離して出てきたのに。
 俺はすんません、いただきます。と、雨の中に踏み出した。
 雨と夜の重なる町は、ふと方角がわからなくなる。でも、重たい一升瓶と、借りたでかい傘が、両手を不自由にして、どこかへ行ってしまいたかった気持ちごと俺を俺に係留し、ただの道を、ちゃんと帰り道にしてくれていることはわかった。