信仰

第11期(2013年10月-11月)

もうすぐ、クリスマスです。

神社へ行き、お寺へ行き、ハロウィンで仮装し、クリスマスを祝い、
というか、クリスマスに託つけてお祭りをたのしみ、2月14日にチョコレートを贈る、

このちゃんぽんな感じは、わたしが好きな日本のチャームポイントの一つです。

その姿はときに軽薄に見えるかもしれないけれど、
どちらの神様が正しいかとか唯一かとか争うわけではないから、平和でいいなと思うのです。

電車の中で寝ていたら、海外の方は日本人は平和ボケしていると言うそうです。
日本の中でもそんな声を聞いたことがあります。

外国にいるときに、自衛のために、
あるいはその国の文化を大切にするためにぴりりと気を引き締めるのはよいと思うけれど、
平和ボケできることをあまりよくない意味で耳にするとき、
いつも臨戦態勢でいることが普通である世の中の方が、病気なんじゃないかのかなと思います。

わたしの生まれ故郷のちいさな島は、日本でいちばん教会が点在しているところで、
子どものころ、夏休みなどで帰省するたびに、フェリー乗り場のみやげもの屋にある
マリア像やキリスト像の形を模したグッズを買っては持ち帰っていました。

わたしには何の意味もわからなかったけれど、それがただ、
隣に置いてあった日本髪の人形よりも美しいと感じたのだと思います。

けれど、仏教徒であったわたしの祖母が、
それをわたしの手から奪い取り、元あった場所に戻してしまいました。
代わりに日本髪の人形を持って来ると、わたしの手の中におさめるのでした。
その顔は不快極まりない、という表情だったことを鮮明に憶えています。

それはまるで、わたしの心の中にたったひとつだけある椅子に、
誰かが勝手にどんと座ったような違和感がありました。

人が何を信じても構わないけれど、
わたしの庭にはわたしが植えたい花を植えるのです。

そしてわたしは、祖母がわたしから目を離したすきに、
またキリスト像やらマリア像やらを手に持ってレジへとこっそり向かうのでした。

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昔の日本人は、人のすぐそばや前を通るときには、「失礼します」と言って相手の結界を切り、
通り過ぎたところで両手を合せてまた結界を結びなおしていたそうです。

人の気持ちには家の垣根のようなはっきりとした境界線がないので、おそるおそる歩いています。

それ故に、招かれたり、招いたりできる誰かがいることを嬉しく感じます。

bless