妖精のいる風景

第11期(2013年10月-11月)

いつもお墓参りに向かう山道の途中にある、
小さな川と並走するように見えない向こう側へと伸びていく小径に惹かれていた。

そして、ある日のこと、その小径の入り口に深緑色の看板が立てられていることに気がついた。

あの小径の向こう側、何かできたらしい。

「ねえ、今日は帰りにあの小径の先に行ってみようよ。」

小さな車が一台通れるか通れないくらいの幅の狭い道をおそるおそる抜けてゆくと、
そこに古びた洋館があらわれた。

くすんだ渋いピンク色の建てもの、ガラスでできたハートやトランプが吊り下げられたポーチ、
無造作にみえるけれど、きっと丁寧に手がかけられているだろう緑の庭。
入り口には割れてしまったティーカップがガラスのタイトルとともに埋め込まれている。

わたしは一目で恋に落ちた。

そこは、すべてを自分たちの手で作り、ご家族で営まれているレストランだった。

みんなにこにこしているけれど、誰も言葉を発しない。
みんな黒い服を着ていて、時折ふっと、何者でもない表情をされる。
わたしは訪れるたびに、はっきりとした距離を感じていた。
そして、それに触れるたび、身も心もしゃきっとするようだった。
お店と言えども、何でもウェルカムというわけではないのだろう。
いつも、誰かの家に上がるときのような緊張感があって、
ご主人たちと話せるようになってからは、その思い入れや歴史などを知るにつれ、
大好きな場所だったけれど、年に1、2度、よくがんばったーと胸を張れるときにしか行けなくなった。
そこはわたしにとっては神社のようで、くすんだ気持ちを持ち込んではいけないような気がしたのだ。

こっそりと密やかに、縁があった人たちだけが訪れるような店にしたい、
だから宣伝はしないのだとおっしゃっていた。

けれど、2年ほど前、レストランをやめてB&Bをはじめたいという目標ができて、
1年ほど休業してイギリスで勉強するための資金をつくるために、テレビや雑誌の取材も受けるようになったそうだ。

そのお陰でお客さんはふえたけれど、それでも危惧していた「なんでもかんでも」の状態にはならなかったらしい。

偶然の出会いのようにお客さんたちと知り合いたいと思っていたけれど、
宣伝しようとこっそりしようと、来るひとは来るし、来ないひとは来ないものなのね、
何度道を聞いても辿り着けなかったというひともいるし、
何度来てもお店が閉まっていたというひともいる。

だけども、宣伝してよかったなーと思ったのは、すごく疲れたお客さんが来たとき。

彼は仕事に就きたての若者で、都会と会社の生活の中ですっかり疲弊していた。
店をはじめて訪れたときはほとんど口をきかず、うなだれて、ぐったり椅子に腰掛けていた。
そんなふうにして一ヶ月くらいほぼ毎日のように来ていたのよ。

それがだんだんとまっすぐ座るようになり、帰るころには元気になっていった。
それをみたとき、ああ、宣伝してよかったと思ったの。
必要なひとに知ってもらうチャンスがひろがったから。

わたしはそのはなしを聞いて、ハリー・ポッターの「必要の部屋」を思い出したりした。
どこで誰の必要と出会うかわからない。

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それから、またあらたに「秘密の花園」のような場所との出会いが2度あった。

ひとつめはバスの車窓からみつけた景色だった。
小さな森のような色とりどりの木々の群れに、5月の終わりになるとたくさんのバラが咲く。
緑と赤やオレンジ、ピンクのコントラストの美しさは、人見知りのわたしにさえその家のドアをノックさせた。

庭の手入れをしていた女性が手を休めてめずらしい花々の説明をしてくれる。
一巡したところで、「どうやってここをお知りになったのですか?」と聞かれた。
わたしはその質問にすこし驚いた。

「知るもなにも、ものすごく目立っていたから」と答えると、
「あら、感心がなければ目の前にあっても気づかないものですよ。」
という答えが返ってきた。

/

そして、1年前の、ちょうどこの季節の頃に、3つ目の場所との出会いがあった。

そこもやはり小径を抜けるとあらわれて、半地下になっているからさらに秘密の場所感が高まった。

小径への入り口がある通りは、関西では有名な観光地のある大通りで、その日も週末でにぎわっていた。
お茶ができるだろうかと心配していたのに、一歩その小径にはいると人通りもぐっと少なくなり、
店内にいたっては、わたしと友人のふたりだけになった。

そこには背の高い、不思議で堂々としたマダムがいた。
小脇にトイプードルを抱え、時折、粘土でもこねるみたいな抱き方をする。
わたしは荻上直子作品に登場するキャラクターを連想した。

マダムは以前、「飛行機に乗ってあちこち行く仕事」をされていたらしい。
行く先々で古いものを集めていったらすごい数になって、気づけば今みたいになっていたそうだ。

和の雰囲気のあるこじんまりとした洋館、きしむ床の店内は古くて主張のあるものでみっしり埋め尽くされていて、
混沌としすぎていて、むしろ調和がとれているような、
見た目はにぎやかなのに気配はうるさくない、静かでぎゅっとあたたかい世界だった。

はじめての訪問では、店内の写真も、マダムの写真も撮らせてはもらえなかった。

そして、つい先日のこと、2度目の訪問がかなった。
昨年、一緒にその店を訪れた友人は「その店貯金」をして東京からやって来ていたので、
その熱意に感動したマダムから、店内の撮影を許可してもらえた。

「マダム、マダムの写真撮らせていただいてもいいですか?」

店の品々に負けず劣らずのオーラのあるマダム、去年も撮らせていただきたかった。

けれど、それはかなわなかった。
去年とおなじく、ものすごく抵抗された。
何かの記念の集合写真にさえ写らないほど、写真嫌いなのだそうだ。

そして、お店の写真をインターネットに載せてもいいかと尋ねたら、
「名前を出さなければいい」と言う。

「宣伝しなくていいのですか?」と聞いたら、

「お客さんはねー、来なくていいんですよ!」と、ひょうひょうとしておっしゃった。

帰り際、もう一つ別の場所に似たようなお店を持っている、
時間があるならこれから来ないかと誘われた。

そのお店は山の中にあって、ここよりももっとひっそりとしていて、そして広いのだけれど、
ホームページもないし、お客さんにも宣伝しないから誰も来ないんです。

そして、あんまりにも人が来なさすぎて、お店を閉める準備をしていること、
それでもやっぱり宣伝はしないということ、
そんなことも、やっぱりなんてこともないようにひょうひょうと話してくださった。

なもんで、閑散としているけれど、それでもよければいらしてください、と。

そんな場所を、ずっと心の片隅でイメージしてきたような気がする。

わたしがこれまでに出会った場所は、見たいとねがっていた景色にちかいように思う。
フォーカスしてサーチライトを当てるなら、これまで存在していなかった小径さえ見つけられるのかもしれない。