anonymousとonymousを巡る8つのエッセー

第16期(2014年8月-10月)

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50人くらい入れる静かで真っ白なスペースにいくつものボトルが整然と並んでいます。それらは、アタックなど市販のプラスチックの洗剤容器だったはずです。しかし表面がやすりで削られ、何の商品かは分かりません。

今年の5月、東京都現代美術館で「フラグメントー未完のはじまり展」を見ました。この展示は、断片的な情報が氾濫する現代において、その「断片」との向き合い方、あるいは「断片」の受け入れ方をわたしたちに提案するものでした。
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/mot2014.html

6組の美術家の作品を順々に見ましたが、忘れ難いのが最初に書いた「ボトル」です。奇妙なのは、確かにきちんと陳列されているはずなのに、ぼうっとやわらかく浮かんでいるように見えるということです。私は認識のブレを感じました。アタックのボトルの原形を完全にとどめているのに、それらはアタックのボトルだと認識することを許しません。ただ、ボトルらしい何かが存在していることを何となく知覚することしか出来ないのです。

ここで気付かされることは、「認識はできないが知覚できるもの」がたしかに存在すること、そして、そうしたものの方がかえって知覚を鋭く刺激するということです。もしかすると、断片的な情報群をなまえで分類し認識するというスタイルを放棄して初めて、解放できる知覚もあるのかもしれません。

このように思いを巡らせた時、Folk-Rockシーンの開拓者であるBob Dylanにも同じ面白さがあることに気づきました。そこで、次回は彼の曲について書こうと思います。