他人と暮らすことの不都合

第17期(2014年10月-11月)

つわりの激しい時期、ツマはよく立ちくらみを起こした。
身体に大きな変化が起きている上に、食欲もいつもより少ない。無理して食べても吐いてしまうのだから、立ちくらみも起きるだろう。
その日はツマと一緒に検診のために病院に向かっていた。

病院のすぐ近くの、横断歩道でのことだ。近くには信号はないこと、向かってくる車がいないことを確認して渡り始めた。途中で足を止めたりすることはなかったが、体調の悪いツマはいつもより歩くスピードが遅いので、もちろん時間がかかる。

横断歩道を渡っている最中に隣の十字路から車が左折してこちら側に向かってきた。
私たちは道路の中心は越え、もう少しで渡り切ろうかというところだった。普段のペースで歩いていたら十分に渡りきっていただろう。少し急いだが、普段早足で歩いているツマのペースよりは遅かったように思う。

運転手は普通の歩行者のペースで横断歩道を渡ることを予測してたのか、スピードを下げる気配はなく、だんだんと近づいてくる。あるタイミングで、私達の歩く速度に気づいたのだろうか、車はスピードを上げた。エンジンをふかす音を響かせながら、そのままのスピードで僕とツマのすぐ脇を走り抜けていった。振り返ると、運転手は中指を立てて走り去っていった。

ツマはその車に振り向くことはなかったが、ひどく驚いた顔をみせた。そのときは、何も言わなかったけど、とても傷ついていたと思う。傷ついていないのならばそれが何よりなのだが。

ゆっくりと横断歩道を渡ることは、それほど迷惑な行為だったのだろうか。それから何度も考えている。運転手を相手に話をしたら、歩行者優先をたてにして交通の妨害をしてるとでも言われるだろうか。それとも、ただイラついただけだとでも口にするだろうか。それならばいっそそう言われたほうが納得がいく。あの運転手は何を考えながらアクセルを踏んだだろう。

9月の中旬にこのことが起きた。
ニュースで見かけた2つの話題とあわせて、それから繰り返し考えている。

その話題とは盲目の人が白杖を蹴られて転倒したというものと、インターネット上で度々見かける「ベビーカーが邪魔だ」というものだ。最近目にしたのはこちらの記事である。

http://www.j-cast.com/2014/09/12215842.html

http://president.jp/articles/-/13600

こちらの記事は単なる炎上商法だと考えているが、ベビーカーに関するこういった話題はよく目にするし、口論や暴力に発展することも度々あるようだ。

議論の中で決まって目にするのは
「ラッシュの時間帯は電車に乗らなければ良い。」
「ベビーカーを使わなければいい。自分の責任で産んだんだから楽しようとして他人に迷惑をかけるな。」
「混雑する時間帯ならばタクシーなどで行動すればいい。」
というようなものだ。

公共スペースでの出来事なので、杖をつく人も、ベビーカーを押す人にも配慮は求められる。それはもちろん当たり前の話だ。電車の椅子で横になっているのは明らかにマナー違反だというのと同じ話である。人それぞれにゆだねられるその配慮がどこまでされるべきなのか、それが曖昧なため問題になるのだろう。

指摘の通りに行動していれば、この事件は引き起こされることは無かったかもしれない。でもそれはおそらく一時的な話であって、盲目の人やベビーカーを押す人がピーク時に駅を利用することを禁止しても似たような事件は起きる。混雑した駅で杖を蹴る人が閑散とした駅で同様のことをしないとは限らず、自分に不都合がなくともベビーカーを邪魔だと言う人は一定数いるからだ。

限られた共有スペースでは道幅が狭くなるなど物理的不都合は生じる。だからといって白杖をついて歩いている人が周りの人々と同じペースで歩くことはできない。出来たとしても違った危険を招く。ベビーカーはいくら畳んでもそれ以上の面積を減らすことは出来ない。おんぶをしたって、子ども一人分の面積はとる。どれだけ配慮しても泣き出すかもしれない。

権利を制限することは迷惑をかける可能性の排除するということだ。その果てには「生まれてこなければ、誰にも迷惑はかけない。だから産むな。」という思想がないだろうか。こういった考えは行き過ぎた自然主義と同様で、現代の問題に解決をもたらさないし、社会を息苦しくする。

どちらの事例も、お互いの不都合はあるものの、権利のレベルでは何もぶつかっていないように思える。ただ自分の使っていないものを使っている人を見て、「あの人は権利を振りかざしている、私は周りに迷惑をかけていないのに!」と、嫉妬している様にすら、私にはみえる。

この嫉妬は、口に出した時、「悪意」に変わる。

人に悪意をぶつけたいという欲求はおそらく、誰にでもあることだ。社会の中には他人の悪意が潜んでいて、それはルールやマナー、権利とは関係なく突然自分に向かってくることがあるのだ。

子どもができて、よく思うことがある。それは今お腹の中にいる子は、少しでも現実が変わっていたら生まれてこないはずだったかもしれないということだ。それが、なぜだかたった今、ツマのお腹の中にいて、内側からツマのお腹を蹴っている。全部「たまたま」のことなんじゃないかと。

この連載も子どもが産まれるのを前提に書いているが、そもそもまだ産まれるかわからないし、生まれたとしても健康な子とは限らない。でもそれも「たまたま」が決めることであって、何も選べないのである。子どもが産まれたら、どんなことがあろうと受け入れなければいけない。親として最善を尽くした上でも、やはり子どもはたまたまが授けてくれる、わからなさを孕んだ「他人」なのだ。

自分の人生は思っているより自分の意思に左右されてはいないのだ。それを忘れると、他人の人生に想像力がはたらかなくなり、無用な悪意を他人に向けてしまうことになる。

子育てや夫婦に限らず、他人と生きることは全て、何が起こるかわからない未来の、そのわからなさを愛せなければやっていけないんじゃないか。そんな風に思うのである。

公共スペースが大きな意味での社会なら、家族内は小さな社会だ。どちらも想像力が欠けていたら、生きづらい。思いやりが社会を円滑にすると言い換えてもいい。他人と生きる中では、権利を主張するだけが自分のためになるんじゃないことを忘れずに過ごしたいと思う。