第二回 ムコになる

第17期(2014年10月-11月)

私は父になる前に、ツマと結婚をしたひとりのムコである。

結婚は、法的には書類一枚の手続きで完了するもので、とてもあっさりした手続きだ。
そのあっさりさゆえにそこに意味を見出せないという人も多い。

「紙切れ一枚で何が変わるのか」という意見や、

「婚姻制度そのものに反対だ」という意見も少なからず耳にする。

わからなくもない。例えば日本では同性婚が認められていないという事実ひとつとったって、実状とのねじれを指摘する材料としても十分だ。
婚姻一つで二人の関係性や、気持ちが保障されるものでも担保されるものなどない。
私もそんな考えにいくらかの共感をよせる一人である。

それでも私たち夫婦は結婚をしたのである。

頼りない紙切れ一枚のためにわざわざ保証人に印をもらい、書類の不備がないかを入念にチェックし、結婚記念日となる提出日に予定を合わせて婚姻届を提出しに行ったのだ。なぜそんなことをしたのか、今でははっきりとわかる。

結婚とは儀式だ。
提出をした書類が受理され、婚姻が認められることよりも、2人で予定を合わせて、書類を作成する。その一連の行動それ儀式であり、そこにこそ意味がある。

友人や知人の結婚式に出席すれば、たいていは式場の中にある教会の中で神父に誓いをたてる姿を目にする。キリスト教徒でもない人間が、なぜ神の前で婚姻を結ぶのかと疑問を感じている人は少なくないだろうし、「地味婚」なんて呼ばれるささやかな式や、式をしない人間が増えているのもだからこそだろう。

その一般的な式の形式には、私は疑問がある。ただ、それがどのようなものであれ、二人の間で儀式として成立するのであれば、それは他人が口を挟むことではないのだ。人間関係は、儀式を担保に成立している。

「付き合うってなんだろう?」のようないわゆる中二的な疑問の答えもここにある。
法的拘束力がない「恋人」の関係性を結ぶものは、今の社会では「告白」という通過儀礼を経たかどうかだ。それがないと、「だってはっきりした関係じゃないし」と、後でごたごたすることになる。

そんな儀式を通過しないでも関係が成立するという人も、もちろんいる。手をつないだときだったり、キスだったり、なにか気持ちが通じた瞬間があった、なんていう曖昧なものでも、ふたりの関係を担保する儀式さえあれば成立するだろう。

それで2人の関係が成立しているのなら、これ以上のことは無い。赤の他人の「それ本当に付き合ってるの?」などという言葉は何の意味もなさないのである。誰かのした風でなくても、社会一般的な手続きを踏まなくても、自分さえ認められれば幸せにはなれる。幸せとは多くの人が思っているよりも、もっと個別的なものなのだ。

私たちは、夫婦になった。婚姻というものに認められたから夫婦になったのではない。自分たちで選んだ行為や時間が僕たちを夫婦にしたのだ。

家族への挨拶も、一緒に暮らすことも、日々のケンカも、そのどれが欠けても今の二人ではない。その全てが日常であり、二人の中の親密な儀式だった。

結婚も同じことだ。僕らにとってはたまたま儀式としての意味があると思えただけのことで、自分たちで意味を添えられない限りは、やはり紙一枚の提出にしか過ぎないのである。