おんなになる-受け入れる存在

第19期(2015年2月-3月)

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[日本舞踊演目/鷺娘をテーマにした学生時代の作品より]

おんならしさ、おとこらしさ、の正体とは一体なんでしょう。
時代の変化とともに、このその「らしさ」の姿を変えながら議論は続いています。
仕事をして家族を守る、家庭を守る、子供を育てる、といった社会的な事柄から、
話し方、仕草、趣味にいたるまでその対象は尽きません。
例えば、
女の子はピンク、男の子はブルーというイメージ。
料理の出来ない女の子はおんならしくない。
泣き虫な男の子はおとこらしくない。
等など…

私個人的な意見を申しますと、一般的に議論されるような「おんならしさ」「おとこらしさ」に興味はありません。
これまで多くの方がこの議題に対して意見を交わし発表しているので、私はそういうお話ではない部分で表現してみようと思います。
仕事の現場において、ばりばり先頭を突っ走る女性や、なかなか恋に発展しない働く女性に是非読んで頂きたいです。

私は今年の抱負を
「受け入れること」
としています。
女として身体的な意味でも男性を受け入れる立場です、女性はつねに何かを受け入れながら生きています。
世間が無意識に向ける「女らしさ」を体現したり、例えば会社でお茶を出したり気配りをしたりお菓子を差し入れたり。

私もたかが25年、されど25年生きていれば、自分の中の曲げられないものや意志が少なからずあるもので、つい我が顔を出して突き通したくなるときがあります。
私はデザイナーでもあるので、どうしても自分の信じる世界観があって、その感性を信じています。
でも意見を聞き入れずに突き通すことは、とっても余裕のない行いだし、なんだかい色っぽくないな、と感じました。
意固地と職人気質は似ていますがちょっと違うんですね。

前回の記事にも書いた「変化を受け入れること」と近いのですが、確固たる信念やモノも変化なく続けていれば色あせてきます。
時代は変化しつづけているのですから、モノや信念も変化して新鮮さを保たなくてはいけないのです。

私はどうしても自分の想いが溢れ他者を受け入れられなくなっている時がありました。
誰かに甘えたりする事も絶対にしたくない。と思っていました。
この時期は、恋愛もまったくご縁がなかったです。
おんならしい、という言葉も嫌いで、当時10代後半の私が抱いていた世間一般のおんならしい象徴は「ゆるふわ系」とか「モテ系」だったんです。
自分の弱い部分を指摘されることも大嫌いで、言い負かされる事なんて絶対に嫌だったり、とにかく他人の意見を受け入れたり指摘されることは当時の私にとって「負け」だったのです。
そもそも勝ち負けなんてないのに。

こういう概念でくくられる事が嫌だった私は、ゆるふわとは全く違う方向の姿をしていました。
誰にも揺るがされない生き様の強い女性に憧れたり、マリリンモンローのようなセックスシンボルといわれた女優達に憧れていたり、かと思えば和服の似合う女優さんに憧れていたり…笑
しかし当時の私が和服美人のような姿を体現出来るわけもなく。。。

不相応な知識ばかり募って、高飛車な尖ってる雰囲気の女。という印象を周りに与えていました。
彼氏いないでしょ。と初対面の男性から言われたことも!
イマ振り返ると、頑固になってプライドばっかり高くなっていたんですね。
甘えることは弱いことだ、恥ずかしい事だと決めつけていました。
これは、恐れから起きる状況です。他者に自分のアイデンティティが揺るがされる不安や、自分への自信のなさが結果的に他者を受け入れずに防御壁をつくりあげ。それが頑固さと隙の無さに繋がっていたのです。

しかし、
一本軸がしっかり通った意志を持っていれば、どんな事に対応してもオリジナリティが消える事はありません。

変化を受け入れる事、防御壁を取り払う事、自分にゆとりという隙がうまれるということを、弱音を吐かせてくれるパートナーが気付かせてくれました。
弱音を吐けるという「心の隙やゆとり」が色気に繋がることも同時に気付きました。
そしてこの考え方のルーツには、日本舞踊と茶道との出会いがあります。

日本伝統のものが大好きだった私は5歳の頃に日本舞踊も学びました、バレエを習っていたのですがそちらをやめて、舞踊に。
私が日本伝統に目を向けるきっかけになっています。
そして10代のころ茶道を始めました。
手先まで気を巡らせた身のこなし、配慮は私に多くの美学を与えてくれました。
茶道は男女関係ありません、ここにおんならしさおとこらしさの垣根はないのです。
あるのは和敬清寂の心、おもてなしの気配り、そして作法の美しさです。
お客様が見ていて心地よい姿、姿勢や手先の所作の優美さ、室内に彩られた季節の花、飾り立て過ぎない事。
「足りるを知る。」という精神。
この精神性や所作は、男女関係なく人の姿を優美にみせてくれます。

おんならしいとかおとこらしいとか、そういうの嫌い、という方も沢山いると思います。
それで良いと思います。個人レベルでは「らしい」はどうでも良いことです。
しかし、他人様が見ていて気持ちのいい姿、をひとりの大人として体現する必要はあると思うのです。
「他人様が見ていて気持ちのいい姿」とはどんなものでしょう。
私はこれを、「知性を感じる仕草」と言っています。
下品な仕草や身のこなしは見ていて不快です。
では上品、知性を感じる姿とは?

ここで歌舞伎を見てみましょう。

歌舞伎は抽象化された、おとこらしさおんならしさの姿が凝縮されています。
ここでまた「らしさ」が出てきますが、
歌舞伎において所作を男女で抽象化し誇張して演じています。
なにかヒントになるのではないかと思うのです。
まずは歌舞伎における表面上の姿、動きについて。

歌舞伎において男性の演じる女性(女形)は、流し目や仕草がとても色っぽいですね。
よりおんならしい仕草や身のこなしを追求し、体現している歌舞伎の女形。
そして、女を強調するために、男を演じる男優はより男らしさを強調しなくてはいけません。
声が高くなめらかに細く話す女形、しゃなりしゃなりとした柳のような身のこなし、流し目と見返り姿の首筋。
野太く大きな声ではきはきと話す男、両足をひらき大地にドンを足をつけずんずん歩く身のこなし、カッと目を見開いて大きな手足の動き。
おんならしい、おとこらしい、の象徴のようです。
歌舞伎においての女は、か弱さを前面に出しているように感じます。時代背景といった要因も多くあると思いますが、
女性を抽象化して表現すると「か弱い存在」なんですね。
(今でこそ女形や歌舞伎は伝統芸能として誇られていますが、昔は女形はみっともない、恥ずかしい。と言われた時代もあったそうです。)

精神性の描き方もまた「か弱い存在」であるおんならしさを反映しているように思います。
その特徴として「悲恋に身を滅ぼす女性」

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鏑木清方「鷺娘」
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池田輝方「お夏狂乱」

たとえば、「鷺娘」「お夏清十郎」
私はこの二つのお話がとってもとっても大好きです。破滅し散っていく女性の姿を美しいと感じる私にとってこれ以上ない演目です。
この二つのお話で共通している内容「恋をした娘が想いを遂げられず、錯乱して散っていく。」
鷺娘は男性に恋をした鷺が人となって男性に会いに行くも恋は叶わずかなしみに散って息絶えるお話。
お夏は身分違いで恋が成就せず狂ってしまうお話。
恋が成就せず狂っていく姿を描かれるのはいつも女です。(現代の映画でもおおくがそうではないかと思います)
演目を是非見て頂きたいな、と思うのですが、
白い着物の鷺娘が雪舞い散る中、自分も舞い散っていく姿、なんと美しく儚い事でしょう。。

けれど鷺娘やお夏にとって、その恋が総てでそれ以外は受け入れられなかったのです。
なんて頑固なんだろうと思いますが、出会った恋に人生を捧げられるエネルギー量は素敵な姿だと思うのです。
彼女達はこれでもかというほど、弱音をさらけ出すのです。
その姿に私は胸を打たれました。私には縋り付いたり、哀しいことを哀しいとストレートに言ったり、そんな事出来なかったから。
こんな風に人生においてそこまで賭けられる恋で、終演を迎えた彼女達は幸せだろうな、と思いました。

しかし同時に、他にご縁のある男性もいたかもしれないのにな、と思ったりするわけです。
だって、女性の皆さん、おんなってか弱いだけじゃないですよね。
実は精神は図太いものだと思うんです。
ひとつの恋愛が終わって、さめざめ泣いてこの世の終わりかと哀しんだあと、さくっと切り替えられちゃったりするわけです。
悲恋に没頭した女性の姿をみて感銘を受けつつこんな事を思いました。
「変化を乗り越えられる度量を持っている、それが女なのかな。」と

現代にももしかしたら、目の前の恋に破れ進めなくなっている女性がいるかもしれません。きっと下を向いているでしょう(でもきっとこの世の終わりかと思う程哀しみきると、さくっと切り替わっちゃったり)
理想ばかり高くなって、目の前のときめきの欠片に突っ走れない女性がいるかもしれません。多分男性を値踏みする目で見ているでしょう、そして弱音を吐ける相手が近くいないか探してみて下さい。
自分の考え方に自負を持っていて、他者の声が聞こえなくなっている女性がいるかもしれません。みけんに皺は寄っていませんか?顔、怖いですよ。

現代の女性は、社会進出と女性の役目を同時に背負わなくてはいけない状況で、おんなとして生きる事と、仕事をするという狭間でどうやって生き方るか、揺らいでいる時代なのではないでしょうか。
仕事をしながら子供を育てれば、良いお母さんを求められ、独身で結婚適齢期を過ぎれば、早く結婚しろと急かされる。
会社内部では結婚の話を上司が女性社員にすればパワハラと言われ男性上司も結婚の話題は話し辛い。
女性側の視点からも会社や社会側の視点からも、女性が腫れ物のようになり、扱い方を模索している様に感じます。

どうすれば解決出来るのか、難しい問いですが
仕事においても
恋や愛においても
自分の考えに意固地になって息苦しくなるより
他者の考えを受け入れてから自分の意志とすり合わせてみる。
この柔軟性が、性や立場を越えてお互いを理解出来るきっかけになるかもしれないと思うのです。

そして、今現在、仕事をしてばりばり働く女性達、恋愛が出来ないでいる女性達は自分の弱味がバレる事を恐れずに曝け出して誰かに甘えてみる。
一度でも弱味をさらけ出す経験をすれば、もうきっと小さなプライドで防御壁を作ることもないでしょう。
必死に守っているプライドなんて大したものじゃないって、気付きますから。
誰にも揺るがされることのない軸は、守る必要なんてないものなんです。

女性の強みは、変化を受け入れられる度量の大きさ、そして包容力ではないかと思うこの頃なのです。
私ももっと柔軟に他者と交わり、
自分自身が活き活きと生きられる環境をつくりたいと思います。

おんなになる-受け入れる存在-
せいな

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余談

伝統の変容を楽しみチャレンジし続けた方として皆さんがなじみ深い方、
「十八代目中村勘三郎」さんの演目は歌舞伎に敷居の高さを感じる方でも見やすいのではないかと思います。
海外公演を積極的に行ったり、江戸時代の中村座で使用されていた定式幕を飾った平成中村座は伝統と現代を織り交ぜた歌舞伎座でした。
ちなみにパリのオペラ座で公演された平成中村座の勧進帳。定式幕とオペラ座のコラボレーションの美しさに胸がどきどきします。

歌舞伎のルーツについて。ちょっとだけお話します。
歌舞伎の女形は男性役者が女性に扮して演じていますね。
出雲の阿国は元々女性で、歌舞伎のルーツといわれる「ややこ踊り」は女性役者で形成されていました。
ちなみに「歌舞伎」の語源「かぶきもの」という言葉は「派手な身なりで流行好きな風俗を乱す人」という意味があり主に派手好きの若い男性達のことだったそう、そんな彼らの風俗を取り入れた踊りを始めたことで「かぶき踊り」と呼ばれるようになったそうです。
遊女遊びの様子だったり、性風俗の様子も描き、演じるのは男性に扮した女性。とあれば、観に行く殿方の目的もいわずもがな(当時、踊りや芸をする人が身体も売っていたのです)
そういった経緯もあってか、風紀を乱すという理由から当時の幕府により女性演者は禁止されてしまったのです。
しかしこれは表向きの理由で、歌舞伎を楽しみに演じるような人々、自由を愛する人々によってその思想が広がり、秩序や封建制度が揺らぐことを恐れた、という話もあります。

さて、男性が演じるようになってからは男色に応え、男性役者達は男性に身体を売っていたという記述も残っているので、結局売春も姿を変えて続いていたようです。
ちなみに遊女の暮らす遊郭にも、男娼もまた存在していましたし、寺院や城内には武士の相手をする稚児(小学生くらい?)もおりましたので、売春というものは多くあります。

遊女もまた、悲恋の題材として多く描かれています。
ご興味があれば作品を探してみて下さいね。