「アタシ」のすすめ(なな)

第27期(2016年6月-7月)

病院みたいな匂いがする。病院に行く機会なんて最近はほとんど無いけど、機械とアルコールが混ざったような、鼻を突く独特な匂いがする。アタシはカウンターテーブルの固さを背中に感じて、視線の先の天井では、ファンがクルクル回っている。仰向けになったアタシの身体に手が伸びて、色々な箇所を弄り、無抵抗を示すために目を瞑る。目を閉じても室内の明るさが瞼を透かして、さらに強く目を瞑る。早く終わって欲しいと思った。自分で望んだくせに。これは手術。たぶん、手術。どうせ死なないから、成功でも失敗でもどっちでもいい。

金曜日、家に着いてから早くも後悔していた。夜、初めて会う高校生と交わした短いキスが、唇の先に記憶されいて、彼がずらしたハーフパンツの中から現れた小さな頂とか、履いていたボクサーパンツの縦縞、その湿り気を帯びたような重たい布地なんかが、熱をもって思い出される。今も手を伸ばしたら、チョンッとその頂に触れる事すら出来そう。温かいはず。アタシの顔からは湯気が出て、それが部屋の四隅に満ちるが早いか我慢がきかなくなったらもう、下半身へ向かう手は止められない。目を閉じて、何度も反芻したすでにドロドロの新しい記憶を出来るだけ鮮明に描きなおし、手の上下運動を繰り返せば、それから5分以内に、白い情欲が布団を汚した。ごめんなさい。気取らずに言えば、オナニーをしました。
産まれてから何度繰り返したか分からない作業の残り香を、慣れた手つきでティッシュにくるんで、ベッドの横のクズ籠へ。「屑篭の中の生命」とタイトルが勝手に浮かんだ。ベッドシーツにはさっき作ったシミが進行形で広がっていて、ちょっと数字の7に見える。今度はシミを見ながら少し考えた後、「青春ダイヤル072」というタイトルを付けて、アホらしくなってすぐ取り消した。
ベッドの上へ、色気のないライトを仰いで寝転がるけど、背中に感じる湿り気が気持ち悪く、くの字型に身体を曲げて、掛け布団はひんやり冷たく優しい抱き枕。クーラーをつけて、電気は消して、またベッドに戻って布団を抱きしめて、ゆっくりと目を閉じる。その一連の動作は何かしら、演技じみていた。
20分くらいたったかしら。眠るつもりなんてはじめから毛頭ないのに、寝られへん、とこっそり呟いて、iPhoneを開くと、思ったよりも眩しくって目の奥が痛い深夜2時丁度。

幼稚園の頃からでした。アタシが、男という自分の性別に対して某かの違和感をもつきっかけがあったのは。勝手に張り付いて消えない記憶がまた一つ。最近また思い出したの。
その頃、大阪の京阪電鉄の沿線である、御殿山という駅に住んでいて、アタシは今と違って可愛く(昔の写真を見てもダントツですから。)、親類縁者に留まらずご近所を巻き込んで、カワイイ、カワイイと言われ、蝶よ花よといった具合に、溺愛されて日々を過ごしていました。本当に女の子みたいで、よく女の子の格好やセーラームーンの服を着せられて、まんざら嫌でもない表情で、写真の中でピースを作っています。
季節は夏。アタシの家は河川敷に面したおんぼろの木造賃貸アパートで、向かいは昔ながらの長屋。さらにその長屋の向いに、「佐々木」と表札を構えた、まわりの景観を崩すほど綺麗な一戸建てがありました。
佐々木さん家は男三人兄弟で、次男の、名前は忘れたけど男の子が、いわゆる近所のガキ大将だった。弱いものには案外優しいというガキ大将たる所以が備わっていて、アタシやアタシの友達に対してはとっても面倒見の良い小学6年生の男の子でした。
通っていた幼稚園がキリスト教の幼稚園で、園内に教会があって中にシスターがいたり、お弁当の前に食前の祈りをしていたことをよく覚えています。ただ家から少し遠い所にあるので、毎朝夕、園バスでの送り迎えがあって、その日も、先生に見送られて家の前で園バスを降り、アパート横の階段を昇るところでした。
なんでそうしたのかよく覚えていませんが、丁度そのころ友達の間でピンポンダッシュが流行していて、アタシは途中まで昇っていた階段を降りて、佐々木さん家の前までトコトコ歩き、不思議な平静のままチャイムを鳴らしていました。ピンポーン。
「はい。」
ピンポンダッシュのつもりで鳴らしたはずなのに、誰かが出るのを待っていたみたいに立ち尽くしていたアタシは、応答する男の子の声を聞いてしまった。走り出す事もできずにいて、何か応えなくっちゃと気持ちが急いてアタシは、普段家に居る母を訪ねにやってくる声、そのマネをしました。
「あのー。すいませーん。ダイイチセイメイのものですけどぉー。」
「は?だれ?」
「だから…あのー。すいませーん。ダイイチセイメイのぉー」
言い終わる前にガチャッ!と勢い良くドアが開いて、中から出て来たのは佐々木さん家の次男坊。散髪をしたのか、少し長めだった髪型は、触ると気持ち良さそうな五分刈りになっていました。まさか次男が出てくるとは思っていなかったから、すごくびっくりした。多分。
そこから途中、記憶が曖昧になっているんだけど、気付いたらその次男坊、佐々木君が、アタシの家の裏の前でおいでおいでと手招きをしているから、そばまで駆けていったらば、途端、腕を掴まれて塀とアパートのベランダの間に引き込まれ、羽交い締めのまま押し倒されたのでした。
怖い、というよりも突然の出来事に頭の処理が追いつかないでいると「お前、自分がなんでこんな事されてるかわかってる?」と聞かれて、首を左右に振るアタシに向かい、こう言われた。ああ忘れもしません。
「練習台じゃ。」
冷たく言い放って、アタシの口にキスをしたのです。だけどそれはキスというより、唇をぐりぐり押し付けて来る感じで、息が出来なくなってしまったアタシは、んー、だの、むー、だの必死に逃れようとはしてみるけど力が強すぎて、小学6年生は幼稚園児にとってほとんど大人だった。それでもやめてくれなくて、息も出来ずにだんだん朦朧としていく意識の中で、アタシの家の2階のベランダが見えて、そこから、妹が行為をジッと見つめていた。恥ずかしかった。幻かと思った。そこからどうなったのか、まったく記憶がないんだけれど。
気付くとアタシはアパートの裏でなく、長屋の前で気絶していたようで、その長屋に住むおばあさんに、大丈夫、救急車呼ぶか、と身体を揺さぶられていたのでした。急に怖くなって、おばあさんを突き飛ばして急いで家に戻ると、母が妹を抱きしめながら、2人で昼寝をしていた。アタシもなんだかすごく疲れていて、2人の間に割って入って、一緒に眠りました。それから佐々木君とは一度も会う事無く引っ越しをしましたけれど、折々に思い出しては、後ろめたい秘密が恋に似た形へ成形されていって、自分の性指向を決定したのじゃないかしら。というか、まことしやかに語っているけど、本当にこんなことあったのかしら。もしも、アタシの脳みそが作った、帳尻合わせのための改ざんだったらどうしよう。
でもね、その時のキスの味って、アキラ君とのキスと同じ、甘いような匂いがしたの。
それを思い出してアタシは、また布団の中でオナニーをした。果てても、もうほとんど何も出ないし、もう朝の4時半だし、そのまま疲れて眠ってしまった。今日は昼からバイトなのにな。

「君いまお勘定丁度や言うたけどやな、それやったら俺がなんぼ払ろうても丁度っちゅう事になるやないかい。ちゃうんか。」
「はあ。すみません。」
理不尽である。アタシがレジでお客さんのお会計をしていて、金額が3476円、お預かりが5076円だったから、つい、「5076円丁度お預かりします。」といった途端に客のおっさんが激高してこの仕打ち。わざわざアタシの名前を聞いて、それをわざとらしくメモに残して帰っていったけど、なにがそんなに気に触ったのか、分かるけど分からない。理不尽な怒りに当てられて、昨日から変にささくれ立った心の皮をさらにべろんと剥かれてしまい、剥き出しの心はヒリヒリして、こっちもなにか攻撃的な気分になった。
今日は正午から難波でずっと立ち仕事をしている疲れもあったからなのか、普段あまり苛立ちを見せるタイプではないつもりなのに、イライラは晴れず、愛想もなく黙々とドリンクを作ったりやなんかしていると、アタシのキリストこと店長の鶴さんから声をかけられた。
「どうしたん。さては疲れてるやろ。人足りているからしんどかったら早上がりしてもいいよ。」
「別になんもないです。このカシオレとウーロンハイB卓にお願いします。」
「あ、はいはい。ていうか実はお願いやねんけど、今日お客さんの入りも悪いし、誰かに早上がりお願いしようと思ってるんやけど、上がる気ないかな?」
「ああそういう事ですか。それやったら早上がりしますよ。やっぱちょっと疲れてるかも。」
「ありがとう。ごめんな。でも疲れてる時すぐわかるよな。急に動きがオカマみたいになんの。ちょっとおもろい。」
「え。」
「なんか妙にキビキビし始めるっていうかさ、でもその動きにしなやかさがある感じ。あ、はーい、すぐ伺います。」
ゾッとした。アタシはいつもしたたかなつもりでいて、アタシがアタシというのはあくまで内的世界だけの話だから誰にもその秘密はバレていないと思っていたし、他人に見透かされるのは悔しい以上に自分で自分が気持ち悪い。自分の声を録音して聞いてみると、想像とは全く違う奇妙な声に聞こえるのと似たような感覚で、どうして、なぜ、と何度でも確認したくなる。恥ずかしい。隠し仰せていると思っていたアタシの愚かさが恥ずかしい。いくらでも直すから、どこがどういった風にみえるのか詳しく教えて欲しい。
ただ、アタシが聞けば聞くほど疑惑は増すだろうし、鶴さんはお客さんに愛想を振りまいているし、どうともできない。気持ちの決着が着かない、いや、着くはずのないままタイムカードを切って更衣室のドアを開けたら、見慣れた狭さや積み上げられたビール樽があって、そのどれもが苛ついて仕方が無かった。わざと男らしくビール樽を拳で殴ってみる。ガコン。痛いだけ。

手早く着替えながら新着メールを確認すると14件も溜まっている。こんなにメールが来るものかと恐怖すら感じていたら、突然ドアが開いて、鶴さんがウーロン茶を持って来てくれたのだった。こういうマメな所もモテる要素なのだと思う。
「今日はまかない食べて帰らんの?」
「あんまりお腹空いてないんで大丈夫です。あ、あと今日暇やったんで発注だけ先にやっときました。言うの忘れてました。」
「うわ。サンキュー。出来るバイトで助かりまくり。時給上げる代わりに今日俺の奢りで飲みに行かへん?みんなで。」
その、「みんなで。」の部分が嫌に強調されている気がして、また邪推してしまう。アタシの事をゲイだと思っていて、変な勘違いを起こさないように牽制したのか、みたいな。
「2人やったらいいっすよ。」
何を言うのだアタシは。そんなこと思ってもみないのに。意識してその辺のバイトの男の子みたいな口調で受け答えたりしてみる。
「え、ええ。なんでやねん。みんなで行こうよ。」
「いや、2人の方が一人にかけられる金額が高くなって豪華なもん奢ってもらえるかと思って。」
「言うねえ。じゃあそれはもっと売り上げ上がったらな。」
「そうですね。でも今日は予定有るんで帰ろうかな。」
「なんやー。残念やな。じゃあ帰れ帰れお前みたいな奴は。気をつけて帰れ。」
鶴さんはそう言って笑ってたけど、なんとなく安心しているみたいに見えて。

ひっかけ橋まで歩いたら、ギトギトしたネオン喜ぶ汚い街。観光客目当ての客引きとか、グリコの看板を背景にピースサインな観光客とか、心斎橋筋商店街の薬局で爆買いしてる中国人とか、意味もなく道頓堀川に飛び込もうと画策して結局やらない大学生とか。とか。人が多いところって結構好きなの。だってこれだけ人がいるのに、アタシに関係している人なんていないんだもん。
人いきれみたいな、蒸し蒸しした空気をかいくぐって橋を渡り切ると左手に、有名な蟹の看板。そのかに道楽本店の前に、綺麗なTUTAYAがあって、同じビルの中に、これまた綺麗なスターバックスがある。
喫煙席がないから普段スタバに入る事はあまりないのだけど、丁度タバコを切らしているし、コーヒーの味がわからないアタシみたいなお子様にもフラペチーノという打ってつけのメニューがあるから、1階の書籍ブースを通って、「進 撃 の 巨 人 19 巻 絶 賛 発 売 中 !」というPOPを一瞥し、二階に上がった。
長い列を待って、新作ではない、お目当ての抹茶クリームフラペチーノを買って席を探すと、奥まった2人用の席が一つ空いていた。そこに腰掛けてまずは、いの一番にiPhoneの新着メールを見た。さらに件数が増えて16件の新着メールが届いていて、その数に驚いてつい、iPhoneを握りしめてあたりを見回してしまう。
アタシはまず古いメールから順番に、ドキドキしながら開いていく。

「15:20 件名:掲示板みたよ! 本文:若いね! 俺でよければ今から会いたいなあ。難波で友達とわかれて暇してます。 179 81 38」

「15:21 件名:こんちは 本文:175.60.29 本町付近に場所あり やろ」

「15:24 件名:件名なし 本文:今から難波中の俺ん家でどう? ラ あり。写メつけてメールちょうだい。」

「15:29 件名:10代大好き 本文:169*69*41 おじさんじゃダメかなあ()若い人には負けないテクニックがあります!病み付きになる子数知れず(笑) 車で迎え行くよ?」

「15:41 件名:件名なし 本文:めちゃくちゃ溜まってます。 仕事終わりに難波行くんで適当なトとかで。 178 68 31のスーツリーマン」

ここまで見てアタシはどっと一気に疲れてしまった。1件1件見終わって、次を開くたび覚悟がいるし、内容に不明な部分があるのもそう。なにより本文から漂ってくる欲望の塊みたいなすえた臭いが、アタシをダメにさせる。この一文一文に、なんて返せばよいのか分からない。じっとりした湿気が、雨も振っていないのにアタシの身体に纏わり付いて、いますぐシャワーを浴びたい。「ラ」とか、「ト」って何なの。でもどうせ危ないものでしょ。
中断してフラペチーノのクリームをスプーンですくって食べると、あたり前だけど甘くって、さっきまで聞こえていなかった店内の騒がしい音と空気が一気に戻ってきた。隣の大学生くらいの女の子2人にもう1人が合流して、すいませんこの椅子貰っても良いですか、とアタシの向かいの空席を、応える前に手で掴んでいる。あ、はいどうぞ、誰か来るかも知れないですけどそれでもよければ、と応えると、え、じゃあ、え、と顔が歪んだあとちょっと怒ったみたいな顔に変わって、じゃあ大丈夫です、と違う椅子を探しに行った。横の女の子2人は、アタシを見もしないのに嫌な視線を投げかけてきているのが分かって、それがちくちく痛い。女の子というのは、直接目で人を見なくても視線を送る事が出来る、唯一の生き物なのだ。

それから少し後、アタシは阿波座駅にいた。難波からそう離れていない場所で、地下鉄のなんば駅で千日前線に乗って、阿波座駅までだいたい10分くらい。居たたまれなくなってすぐにスタバを出たアタシは、最後に届いていた19:30のメールをあてに、わざわざオフィスビルばっかりのこんな所まで来たのである。

「19:30 件名:こんばんは 本文:俺もはじめてメールを送ります。もしよければ会ってみたいです。 172 58 23 阿波座に場所ありです」

届いたメールの中で、一番まともというか、こういった行為が初めてだというアタシの心情を鑑みた内容に好感が持てたし、安心もした。相手も初めてだという部分を信じて、返信をするよりも先に地下鉄に乗り込んでいた。その地下鉄の中で、今阿波座にいます、と、いまアナタの為に向かっていますという本心は隠し、簡単で罪のない嘘をメールで送って、いま、阿波座駅10番出口の壁にもたれている。返信は中々来ない。

今日バイトの出勤前、家を出るより3時間も前に起きたアタシは、iPhoneを手にもじもじしていた。投稿しようか、するまいか、ずっと悩んでいたのだ。ネットで見ているのは「cool gays!」というサイト。ゲイの人達が一晩を過ごす相手や、彼氏を募集する掲示板サイトで、各都道府県別に写メ掲示板とか、今暇掲示板とか、そんな名前の掲示板がいくつもあるサイト。今日初めて知った訳ではなく、少し前にその手のイヤらしいサイトを巡っている時に見つけたもので、発見した時の衝撃たるや凄まじいものだった。その人口の多さにびっくり仰天したの。
今はそういう人たちのためのスマートフォン用アプリなんかがいくつかあって、出会いというのはそこで満たすものだ、と知っているつもりでいたし、知っているだけで何もしていなかったから、実際掲示板という形で目にした時には、ついに見つけてしまった、の感が強く、でもそこから離れられず一日中、掲示板に掲載されている募集要項をみて、その内容の疑似体験を頭の中で膨らませていた。もし、投稿してしまえば「同性愛者」の烙印を喜んで刻み付ける事になりそうで、恐ろしくなったアタシは、それからずっと、そのサイトを見ないように努めていたのだ。
けれども昨日、実際の男の子と触れ合ってしまって、そのシンボルを目にした時に、ずっと見ない、聞かない、気付かないようにしていた、自分の性指向を露わにされて、もう、何かしらの諦めがつき、初めての投稿の決意を、揺らがせていたのだった。
自分が男でありながら、男が好きであること。それに気が付いていても、不思議ね、アタシだけは同性愛者なんかじゃないと思っていたの。そういえば、アダルトビデオなんかを見ていても、気付けば”おちんちん”ばっかり見てた。
結局家に居る間は決心が着かず、投稿用の文面だけを何となくメモ帳アプリに残して、Twitterを更新したりして時間をやり過ごしたけど、アルバイト先に着く頃になって、投稿するには今しかない、今やるべし、と急に天啓を得たみたいに、勢いのまま投稿ボタンを押していたのだった。
更衣室に入って着替えている時には心臓がバクバクして、早速メールが届いているのか着信音が鳴っていたけど、ひたすら無視を決め込んだ。なかなか結べないネクタイに四苦八苦している間も、頭の中には、変態、こんな事をするのは変態だ、という声が響いて、ちょっと後悔だってした。
そうです。もうアタシは変態。変態です。変態の子なんです。え。投稿した内容ですか。やだ、ばか言わないで下さい。それは秘密です。変態にだって恥くらいあります。恥があるからいいのです。恥のない変態なんて、ただの変態じゃない。飛べない豚と、おんなじよ。ああもうほら、こんなことだって言えちゃうんだから。諦めちゃえば、大したものよね。

風が無くてじっとりした空気の中で、駅出口の壁で何をするでもなく、ただぼーっと待ちぼうけを食らっていると、やっとメールが来た。来たかと思えば、本文のなかには、知らない住所が記載されているだけだった。多分ここに来いという事なんだろうけど、はじめの好感度の高いメールとの落差に驚いて、違う人なのではないかと疑った。

「20:26 件名:件名なし 本文:ここに行けばいいってことですか?」
「20:27 件名:件名なし 本文:そですよー。何時くらいにこれる?」
「20:29 件名:件名なし 本文:いまから調べますけど、ここからなら多分15分くらいだと思います。見た目とかどんな感じの方ですか?」
「20:32 件名:件名なし 本文:男女共に悪く言われない感じ。そっちは?」
悪く言われない感じって、それってどんな感じよ。
「20:34 件名:件名なし 本文:ボクはこないだ撮った写真があるんでよければ送ります。そちらも貰えますか?」
「20:38 件名:件名なし 本文:うーん、写真はちょっとごめん。悪用が怖いし。ダメなら会って断ってくれて良いよ。それでもいい?」
住所は送るくせに!これは多分ダメだ。なんかダメな気がする。断った方が良いのかも。
「20:40 件名:件名なし 本文:わかりました。大丈夫です。」
あほ!根性なし!うじ虫!
「20:41 件名:件名なし 本文:ごめんね。じゃあ待ってる!着く前に連絡して。」
「20:41 件名:件名なし 本文:了解です。」

ここまで来て断るのも、ましてや見知らぬ人の家にメールのやり取りだけで上がるのも、そのどちらも嫌で、どちらにも気持ちの傾かないまま、なし崩しに家に行く事になってしまった。ダメなら会ってから断ってしまえばいいのだ。でも果たしてアタシにそんな事が出来るかしら。メールですら断れずに、流されてしまうアタシが。
マップで教えられた住所から検索をすると、ここから10分とかからないところだった。大通りに面していて、その周辺は居酒屋とか、飲み屋さんがいくつかあるところのようで、人の往来が絶えずある場所。でもマップが示す住所に来ても、住居らしい建物が無く、アタシの目の前には3階くらいのおんぼろのテナントビルが聳えていた。まさかと思って、そのテナントビルの写真を撮って、会うであろう相手に送信をすると、「ここで合ってるよ♪2階の一番奥ね♪」と極めてご機嫌なメールが届いた。
たしかに住所だけでマンションかどうかなんて聞いてないけど、こんなところだとは思っていなかった。怪し過ぎるし、なにか事件に巻き込まれるのではないかという不安が広がり、頭の中では、明日流れる暗いニュースを想起させた。前まで行ってみて、ダメなら黙って帰ろう。そうしよう。ひと呼吸置いてから決心して、狭いコンクリートの階段を音を立てずに上って行った。

上がって行くと左右に小さい飲食店が合わせて3軒くらいあり、その一番奥の、ライトが届かずひっそりとした所に、BARと書いたライトを構えた店があった。営業はしていないのかライトは消えている。
よそうと思った。始めの好印象はどこへやら、バーで変なお酒でも飲まされて、殺されでもしたら敵わない。そのまま踵を返して、階段を降りようとしたけれど、途中で、これでいいのか、と、いらぬ好奇心というか、決心の残りカスみたいなものがぼんやり燃えはじめ、アタシはまた、ドアの前までゆっくりと歩いていた。ここで帰っては男が廃ると、始めから持っているのかいないのか分からないものにすがって、入りづらい店には名店が多い、とかなんとか、これに限って意味の通らない思考を決意に変えたら、バーの扉をノックした。
全く音沙汰が無く、間違えたのかと、また決心が揺らぎ始めたころに着信音が鳴り、「どうぞ」と一言メールが届く。いちいち恐怖の演出めいて、すごい早さで脈打った心臓に胸を押さえながら、震える手でドアノブを回し、ゆっくりと、中へ入った。

「こんばんはー。はじめまして。ごめん、びっくりしたやんな?」
店内は予想通りの暗さで、入ってみると、普通のショットバーだった。カウンター7席くらいで、カウンターの後ろには小さなBOX席がある。もっとおどろおどろしい、海外の趣味の悪い露悪的な調度品が所狭しと並んでいるような店を想像していただけに、清潔な店内には少し拍子抜けした。
「ほんまに17歳なんやなあ。やっぱり見た目が若いもん。」
「あ、はい。経営されてる店ですか?」
「そうそう自営。趣味みたいな感じかな。だから何でも飲んで良いよ。あ、なんか作るよ。なにがいい?」
あ、じゃあ、カルアミルクで、と言おうとした瞬間、早紀ちゃんの下品な笑い声が聞こえて来て、ついこの間カルアミルクは一生飲まないと決めていたのを思い出した。
「じゃあジントニックで。」
「お、お酒飲んじゃうか。未成年やのに。とりあえずカウンター、座って。」
「へへ、すいません。」
なにがへへ、だ。気持ちの悪いお愛想笑いをしながら、安心が戻って来たところで、ドリンクを作っている男の人の顔を見て、ん?と疑問が一つ湧いて出た。
届いたメールにはたしか「172 58 23」と書いてあって、まあ分かると思いますが、身長、体重、年齢のプロフィールなんだけど。身長、体重に関しては問題なし、でも年齢の部分は、どうおまけをしてみても、26くらい。おまけをしなければ30くらいの感じ。アタシは確実に騙されている。初めてと言っていたのも、絶対に嘘だ。
「はい。」
そんな事を考えているとジントニックがコトリとカウンターに置かれ、アタシは作っている過程になにか変な物を混ぜられていないか、確認をしてやろうと思っていたのに、それを忘れていた。
よくある海外の映画みたいに、口に含んでから、飲むフリをしてペッと捨てようかと考えたけど、それも結局出来ず、普通に美味しくいただいてしまった。
まるまる一杯、特に話も弾まないから飲み干したけど、特に身体に異常はない。彼は自分の事を29歳と言い始めて、アタシはやんわりと、23歳かと思ってここに来た事を伝えると、押し間違えてしまったと軽く流されるだけだった。どんな太い指しとんねん、と言ってやろうかと思った。なにがあるかわからないから、思っただけ。
お互いほとんど素性を明かさない会話ばかりに限界がやって来たのか、ふっと会話が止んで、静寂はこのまま一生続きそう。そして、この静けさは、あの時アキラ君が不意にだした、あの静寂と種類が同じである事に気付いてしまった。
気付くと、名前も知らない男の人は、カウンターの向い側からすでに出て来ていて、アタシの後ろに回ると、肩から腕にかけてを、ねばっこい手付きで撫でるのだった。
硬直してしまったアタシの身体を労るみたいに肩を揉んで、緊張してる?と聞いてくる男の人の肌の感じは、アタシにとってはおっさんそのもので、出来うる限り顔を遠ざけて見ないようにしたい。
「この上に寝てくれる?」
そう言いながらおっさんが指差したのはなんと、奥のBOX席ではなく、今アタシの目の前にある、長いカウンターテーブルだった。
「え、この上ですか。その後ろのソファじゃないんですか。」
「この上の方が触りやすいから。」
びっくりしているアタシの頭を優しく撫でながら、もう片方の手で半ば強引に身体を起こされ、靴を縫いでカウンターテーブルの上へ横たわると、そこから見える光景が、今まで見た事無い景色に感じて、滑稽なアタシの姿が情けなく、だんだん、どうでも良くなって来たのだった。

病院みたいな匂いがする。病院に行く機会なんて最近はほとんど無いけど、機械とアルコールが混ざったような、鼻を突く独特な匂いがする。アタシはカウンターテーブルの固さを背中に感じて、視線の先の天井では、ファンがクルクル回っている。仰向けになったアタシの身体に手が伸びて、色々な箇所を弄り、無抵抗を示すために目を瞑る。目を閉じても室内の明るさが瞼を透かして、さらに強く目を瞑る。早く終わって欲しいと思っている。
お酒が弱いから、ジントニック一杯でアタシはほろ酔い。赤い顔はきっといつもより可愛い。身体の上を張っている手は上から下に移動して、ついに”おちんちん”まで到達したら、カチャカチャ器用な手でベルトを外し、中から飛び出したアタシのソレは、気持ちとは裏腹に熱り立っていた。身体は正直ってやつ。
アタシのソレを握った名無しの男の人の手は熱く、初めて他人に触られた感触はゴツゴツしていた。そのまま手を上下されると、こそばゆくて、アタシの口からは息が漏れ、彼はそれを喜んでいるのが息遣いからも分かる。その手を止めると、今度はアタシのお尻まで手が伸びて来て、思わずその手を制止するけど、自分で分かるくらい形だけで、それを今まで知ってきた彼の手は、おかまいも無く指でアタシのお尻を触る。女の子みたい。女の子になったみたい。固い手でアタシの身体を触る手を喜んで、されるがままのアタシは女の子みたい。そう思うと少し前まで早く終われと願ったはずの身体はアタシを裏切り、口からは勝手に高い声が出た。
その途端にアタシの顔を見つめる彼の目の色が少し変わり、また一瞬音が止まったような気がして、手ではアタシの身体を弄ったまま、顔が間近までやって来る。優しく鋭いその目付きで、唇を近づけた。アタシは今それが欲しい。その唇でアタシをもっと汚して欲しい。ドロドロの頭では思考が働かずに、恍惚のまま唇を寄せ合わせたら、彼の匂いがして、その匂いでもう、アタシは一気に目が冷めた。違う。

「やっぱりキスはダメやった?ごめん。」
横で申し訳なさそうに謝る男の人を尻目に、アタシは急いで服を着て、瞬く早さでリュックまで背負った。唇を合わせた瞬間に全てイヤになって、彼の身体を退けて、無言のまま服を着て、何も言わずに態度だけでお断りをしたのである。違ったのだ。昨日アキラ君としたキスの匂いとも、強引に奪われた、佐々木君との朧げな記憶の中のキスとも、全く違った。それだけが決定的に嫌だったのだ。
「ごめんなさい。」
それだけを捨て台詞に、すぐに店を出た。アタシは頭の中で何故か、ずっとアキラ君の名前を呼んでいた。ひたすら盲目に。

地下鉄阿波座駅までまでコンコースまでやって来たら、アキラ君の存在が少し、頭の中から薄れて、現実感を伴って立つ事が出来た。さっきまでぼんやりした夢の中にいたみたいだったのに、都合のいい頭はすぐにそれを忘れてしまい、さっきまでの行為も急にバカらしくなって笑えて来た。カウンターの上って。
なんじゃそりゃ。
改札に入ってホームまでの階段を降りていると、iPhoneのバイブが鳴って、見てみると、新着メールが届いている。さっきのおっさんか、と思いつつも内容を確認すると、「cool guys!」から新しいメールが届いていたのだった。
「22:12 件名:件名なし 本文:遅いけどいまから会えませんか? 176 59 19」
アタシは自分でもイヤになる早さで終電検索アプリで、家までのだいたいの終電を確認して、「いまどこにいますか?」と返信していた。アキラ君の存在は、完全に頭の中から消えていた。
変態。変態だ。欲望に駆られたアタシは全てを忘れて恥もない、ただの変態だ。飛べない豚になってしまった。あなた、どうぞお見捨て下さい。これ以上はきっと、なんにもならない。
ホームに立っているとアナウンスが流れて、黄色い線の内側まで下がれという。上り下り両方の電車がやって来て、ホームの空気をかき回していき、起こった強い風に身体がよろめいた。この沿線にアタシの家はないのに、一体、どこにいくのかしら。