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2F/当番ノート

自殺について

当番ノート 第3期

「今、サナトリウムにいます。みんなに会いたいです」

 大学2年の夏。夏休みを終えて部屋に帰ると、そんなメッセージが留守番電話に残っていた。電話の声の主は友人のMくん。

 私はそのメッセージを何度も聞き返した。Mくんの声は涙まじりでとても悲しそうだった。私は「サナトリウム」という言葉を「書き言葉」では知っていたが、声として発せられたのを聞いたのは初めてだった。

 私とMくんが初めて出会ったのは大学1年の春。1年の浪人生活を終えて大学に入ったばかりの私が、入学後のオリエンテーションでたまたま後ろの席に座ったMくんに声をかけたのがきっかけだった。

「どこからきたの?」

 私の問いかけにMくんは顔を赤くするばかりで何も答えない。私はMくんから言葉が発せられるのをしばらく待っていたが、Mくんは口をモゴモゴさせるばかりで決して声を発さなかった。

「なんだろう? 変わったやつだなぁ」

 私がそう思っているうちに、教室にクラス担任が入ってきて今後の予定を話しはじめた。私はMくんのことを頭の隅に追いやり、担任の話を熱心にメモした。

 簡単なガイダンスが終わると、一人ずつ簡単な自己紹介をさせられたことを覚えている。いきなりビートルズの「Let It Be」をアカペラでフルコーラス歌うヤツがいたり、30過ぎたオッサンみたいな人がいたりと、かなり奇妙な空間だった。Mくんは名前と出身高校ぐらいしか名乗らなかったが、4月特有の高揚した雰囲気のなか、私はさほど気にすることもなくみんなの自己紹介を聞いていた。

 自己紹介が終わると、その日は解散。さっそく教室の端で、自然とお調子者っぽいヤツらの輪ができる。まあ、飯でも食おうか、なんて話していると、さきほどのMくんが私の肩を叩いてきた。

 なんだろう、と思って振り向くと、Mくんは私に折りたたまれた紙切れを渡して立ち去った。どうやら私宛の手紙らしい。お調子者たちとの話が終わった後で読むと、こう書いてあった。

「さっきはごめん。Mといいます。精神的療養中です。よろしく」

 まだ19歳だった私には、「精神的療養中」という言葉の意味がよくわからなかった。「これはオレを笑わせるためのネタなんじゃないか」と思っていたほどだ。そのクラスには「オレ、対人恐怖症なんだ。よろしく」と面と向かって言うヤツもいたからだ。

 1週間、2週間と時間が経つに連れて、だんだん私とMくんは話をするようになった。お互い一人暮らし。真面目に授業に出ているMくんに代返をお願いしたりノートを借りたりと、私は一方的にMくんのお世話になるようになっていた。

 しばらくして私はバイクを買った。Mくんは東京西部の拝島市に住んでいたので、よく、夜中にバイクに乗っている仲間数人でMくんの家に集まってキャンプに出かけたりした。免許を持っていないMくんはいつも誰かの後ろのシートに乗って出かけていた。

「いいなあ、バイク。オレも免許を取ろうかな」

 どちらかというと暗い雰囲気だったMくんも、こころなしか明るくなっているような気がした。私はMくんが明るくなっているのは私達と付き合うようになったからだと、この時点では錯覚していた。

 しばらくすると、そのMくんが昭島から練馬に引っ越すという。引っ越し屋に頼む金がないというので、私達は友達5人で激安の引っ越し作戦を敢行することになった。車は一番安い小さなトラックを6時間だけレンタカー屋で借り、荷物の運搬は自分たちでやる。友達への報酬はなし。手伝った友達に晩飯を一食おごる、という計画だ。

 ところが引越前日の深夜3時、Mくんの部屋を訪ねた私達は愕然とした。部屋の様子がいつもと変わらず、まったく荷物がまとまっていなかったからだ。

「おい、M。これで本当に5時間後に引っ越せるのかよ」
「大丈夫。まあ、お茶でも飲もうよ。今、お湯湧かすから」
「おいおい、なんでまだお茶の道具が出てるんだよ。っていうか、お前、何一つ荷物がまとまってねえじゃんか。これじゃあ朝8時に拝島を出発するの、無理だぞ。引っ越せねえぞ」
「あ、お菓子がないや。コンビニで買ってくる」
「バカ。そんなことしてる場合じゃねえよ。荷物まとめるぞ」
「いいよ。自分でやるよ」
「バカ、一人でやって間に合うわけねえだろ」
「でも、大事なものの振り分けとかもあるし」
「それがとっくに終わってると思ったからオレ達は手伝いにきたんだよ。ここにある週刊少年ジャンプ、捨てるからな」
「あ、ダメ! まだ読んでないやつがある」
「バカ! 間にあわねえよ。すぐ決めろ。これ、捨てるぞ」
「あ、ダメ」
「じゃあ、これは持ってくやつな。これは?」
「あ、それは読んだ」
「じゃあ、こっちは捨てるヤツ。あれ? お前、ベッドの下に何冊ジャンプがあるんだよ! びっしりじゃねえか!」
「全部とってあるんだよ」
「全部持ってく気なのか?」
「できれば」
「バカ。お前、レンタカー6時間しか借りてねえじゃねえか。しかも今日、ものすごく道路が混んでるぞ。拝島〜練馬間だったら、1回で全部運ばないとたぶん無理だ。延長するならいいけど」
「え。延長するお金無い……」
「じゃあ、ジャンプ捨てろ」

 そんな押し問答をしながら、私達は手際よく捨てるものと持っていくものをどんどん振り分けた。バサバサとジャンプを捨てていく私達の様子を見るに堪えなかったのか、Mくんはベッドに寝込んでしまった。

 途中、激しく呼吸を乱すMくん。

「おい、M。大丈夫か?」
「大丈夫。いつもの発作だから」
「薬とかあるのか? どこだ?」
「流しの上の棚」
「これか?」
「そう、それ」
「ほら、早く飲め。大丈夫か?」
「うん。大丈夫。しばらく休んでれば大丈夫」
「じゃあ、オレ達は続けるからな」
「ごめん。お願い」

 結局、荷物がまとまったのは7時間後。予定の出発時間を2時間ほどオーバーしている。

「じゃあ、オレ、レンタカー屋に車取りにいってくるわ」

 唯一、車の免許をもっているSくんがレンタカー屋に車を取りに行っている間に、私達はMくんをベッドから下ろしてベッドの解体を始めた。Mくんは部屋の片隅でヒザを抱えて座っている。

 私達引っ越し実働隊は、「なんだかわからないけど発作を起こすなんて、ちょっと口調がきつすぎたかな」という気持ちと、「まったく準備してないんだからしょうがないだろ」という気持ちが混在したまま黙々と作業を続けた。

 部屋の隅で固まっているMくんに構わず、ガスコンロを外したり、風呂の掃除をしたりと、着々とMくんの部屋を空っぽにしていくことで、Mくんにつらくあたった罪の意識を消そうとした。

 片づけた荷物をどんどん玄関の外に出していると、小型の幌付トラックに乗ったSくんが到着した。私達は部屋の隅に座っているMくんに構わず、どんどん荷物をトラックに積み込んだ。かなりのものを捨てたので全部荷物は載ると思っていたが、大きな手提げ袋二つ分だけ、トラックの荷台にも、座席にも載らなかった。

「このトラック、ベンチシートで3人しか乗れねえや。オレ達、先に新しい部屋に行って荷物入れとくから、MとKは手提げをもって電車でこいよ」
「……わかった」

 トラック部隊は渋滞の中、大急ぎで新しい部屋に向かい、一気に荷物を運び込んだ。なんとかギリギリでレンタカーの返却時間には間に合いそうだ。3人で一気に荷物を車から降ろし、Sくんが急いで車を返しに行ったところで、ようやくMくんとKくんの電車組が新しい部屋に到着した。

「洗濯機ここに置くぞ。ベッドはここでいいか」

 Mくんが全然動けないようなので、私達は運び込んだ荷物のレイアウトにかかり、一気に部屋を住める状態にまで持っていった。それでも引越が終わったのはかなり日も暮れてからだ。

「ご飯食べて行ってよ」

 とMくん。

「いや。もう遅いから今日はいいや。お前もつかれただろうから寝ろよ。じゃあな」

 私達はそう言い残してその場を去った。引っ越し実働隊の私達は「もう友達の引っ越しを手伝うのはやめような」と口々に言いながら帰っていった。

 Mくんを学校で見かけなくなったのは、その引っ越しが終わってしばらくしてからのことだ。以前より格段に大学に近い場所に越したのに、Mくんはほとんど大学に顔を見せなくなっていた。

 私達も引っ越しでMくんとは気まずい雰囲気になっていたし、すでに何人か学校を辞めたり来なくなってしまったヤツがいたので、それほど気にかけることもなかった。以前のようにMくんの家に行きにくくなっていたことも、無関心を装う原因になっていた。

 そうこうしているうちに夏休みが来て、私達は引っ越しのこともほとんど思い出さなくなっていった。

   ***

 冒頭に書いたMくんからのメッセージが吹き込まれたのは、私が夏休みの帰省中、家を長期で不在にしていた間のことだった。尋常ではない様子のメッセージが気になった私は、留守電を聞いてすぐにMくんの実家に電話をかけた。電話に出たのはMくんの母親だった。

「休み中にMくんから電話をもらっていたみたいなんですが……」

 私が名前を告げた後にそう言うと、母親は、

「ちょっと待って下さい」

 と電話を保留にした。しばらくして電話口に出たのは、Mくんではなく、Mくんの父親だった。

「あなたが畠山くんですか。Mからよく話は聞いていました。大学ではいろいろみなさんにお世話になったみたいで…」
「いや、そんな。いつも僕らがMくんの家にお邪魔していたし、こちらこそ本当にお世話になってるんです。Mくん、今、どこかに入院しているんですか」
「……Mは先月亡くなりました」
「ええっ!」

 オレは言葉を失った。いったいMくんに何があったのか。

「しばらく実家に帰って療養していたんですが、入院と退院を繰り返すような状態だったんです……」
「……すみません。まったく知らないで電話をかけてしまいました……」
「いいえ。かけていただいてありがとうございます。Mはこちらに帰ってきてからも、よく大学の友達の話をしていたんです。治療が辛かったようで『早く大学に戻りたい』と話していました……」
「そうなんですか……。まったく知りませんでした…。もし、お父さん、お母さんさえよかったら、お線香をあげさせてもらいたいと思うんですが、いいですか」
「ありがとうございます。Mも喜ぶと思います。でも、あまり無理をしないでください。ご迷惑になるのはMも望んでいないと思います」
「じゃあ、少し落ち着いてから、またご連絡します」

 その電話から二週間後、私達は車に乗って群馬にあるMくんの実家を訪ねた。引越しを手伝ったうちの一人であるYは「オレは行かない」と言った。

 私達はMくんの実家で、初めて会う彼の父親、母親から生前のMくんのことを聞いた。小さい頃、どんな子どもだったかということ。妹思いの息子だったということ。ジャズが好きだったということ。彼のCDのうちいくつかを形見分けとして私達にもらって欲しいということ……。

 私達もできるかぎりMくんとの思い出を話した。Mくんを後ろのシートに乗せてツーリングに行ったりキャンプに行ったりしたこと。よくMくんのアパートに集まっていたこと。引っ越しの時にMくんに辛く当たってしまってMくんが発作を起こしたこと……。

 Mくんの母親は話している途中で感極まって席を立ってしまった。突然立ち上がり、部屋を出ていく母親の後ろ姿を見て、ものすごく申し訳なく思った。

 一番ショックだったのは、Mくんが自ら命を断ったと彼の父親から聞かされたことだった。Mくんの母親が席を立ったのは、まさに話がそこにさしかかろうとしていたときだ。父親の口から、桜の木に揺れるMくんを最初に抱きしめたのは母親だと聞かされた。居間にいる私達からは見えない台所で、母親が鼻をすする音が小さく聞こえた。

 しばらくの沈黙の後、最初に口を開いたのは父親だった。

「それじゃあ、お墓にご案内します。すみませんが、線香をあげてやってくれませんか」

 父親に案内されたのは、家からほど近い田舎の小さなお寺だった。墓石はまだない。お墓の一角に、新しい卒塔婆が寂しく立っているだけだった。

 私達は卒塔婆の前に花を手向け、線香を上げて合掌した。冥福を祈りたい、という気持ちもあった。しかし、私は心の中でずっと「自ら命を断つなんて、ずるいじゃねえか。M、お前は早死にがカッコイイと思ってるかもしれないけど、全然カッコよくねえぞ。ずるいぞ。お前、『山田かまちに憧れる』って言ってたけど、オレは全然山田かまちをカッコイイなんて思わねえぞ。お前、何も残してねえじゃねえか」とMくんを責めていた。

 お墓からMくんの実家に戻るまでの間、私達は無言だった。形見分けでもらったCDはビリー・ホリデイの『奇妙な果実〜ベスト・オブ・ヴァーヴ・イヤーズ〜』。そしてマイルス・デイヴィスの『テンパス・フュージット–コンプリート・マイルス・デイヴィス・オン・ブルーノート』。いずれも2枚組だ。

 マイルス・デイヴィスのCDは2枚組だが、1枚は入っていなかった。ケースを開けると中には梱包用のスポンジや、ケースとビニールシートの間に挟まれていたであろう帯がきれいに収められていた。

「こんなもんまで取っておくなんて、Mらしいな」

 形見のCDに私は生前のMくんを感じた。

 ご両親への挨拶を済ませ、Mくんの実家の前に停めた車に乗り込んで帰ろうとすると、父親が私達に向かっておだやかな表情で言った。

「何もないところまで来ていただいて、本当にありがとうございます。Mも喜んでいると思います」
「いいえ。こちらこそ、何もできなくてごめんなさい」
「みなさんには本当によくしていただいたとMも申しておりました。本当にありがとうございます」
「いえ。僕達は何もできませんでした」
「そんなことありません。Mは本当にみなさんに感謝していました」
「いいえ……」
「このへんは何もないところですが、ここから少し行ったところにヘビセンターがあるんです。せっかくですから、寄っていって下さい」
「……いや、お線香をあげにきただけなので、まっすぐ帰ります」
「そうですか…。本当は近くにサファリパークもあるんですけど、もうサファリは閉まっていると思いますから、せめてヘビセンターに」
「いや、本当にお線香をあげにきただけですから」
「意外と立派なヘビセンターですから、ぜひ寄っていって下さい。よろしければご案内します」
「いや、本当にそんなに僕らに気を使わないで下さい。地図があるので、行くなら自分たちで行けますから。本当にお邪魔しました」
「そうですか……。本当にありがとうございました。お気をつけてお帰り下さい」
「お邪魔しました」

 私達はお父さんに深々と頭を下げると車を出した。ヘビセンターには寄らなかった。

「なんか湿っぽくなっちゃったね。音楽でも聴こうか」

 そう言って運転席に座ったSくんがかけたカセットテープは、底抜けに明るいカリプソ「Mighty Sparrow」のテープだった。私達はバカみたいに大声を出し、♪What’s the matter〜♪と同じ曲の同じフレーズを何回も歌いながら東京へ帰ったのだった。

   ***

 自殺をしたい、という人がいる。

 私にはその気持ちがわからない。私も小学生の頃、自殺の真似事のようなことをしようかと思ったり、いますぐ世界の終わりがこないかな、と思ったりしたこともあった。だが、死に至るまでの時間を想像するだけで死にそうなくらい辛かったから、自ら進んで直接的に死のうとするのはやめた。

 死を選ぶ勇気がない私は、今でもダラダラ生きている。

「だらしねえな、自分」と思いながらも生きているのは、「いま死んでもいいことがなさそうだから」だ。「生きていたらいいこともあったりして」と思っていることもある。あるのかどうかわからないが、もし地獄があるとするならば確実に地獄行きになるような人生を送っているから死ねない。

 べつに「生かされている」とか「いいことをして天国にいきたい」とかそういうことを言いたいのではない。私は「死んだら成長は終わる。生きていれば少しはマシな人間になれるんじゃないか」というスケベ根性で生きているだけだ。

 人間、いつかは死ぬ。死んだときには周りの人に迷惑をかけてしまう。でも、私が死んだときには「あいつ、スケベだったよな」の一言ぐらい言ってもらいたいと思う。死ぬ直前には自分の額に「肉」ってマジックで書いてから死にたいと思っている。ところが自ら命を断ってしまえば、残された人には「死を笑い飛ばす」という選択肢がなくなってしまう。それは残された人の感情の一部を、殺してしまう行為なのではないかと思うのだ。

 もちろん、自殺しなくても若くして死んでしまうことだってあるし、生きたいのに生きられない人もいる。自殺したい人の理由も、私には想像できないようなことがいろいろあるだろう。

 だから、私は人が自殺するのを止めることはできない。むしろMくんに関していえば、自殺を止めるどころか背中を押してしまったのかもしれないと思っている。

 それはよくわかっている。それでも私は、いまでもMくんはズルいと思っている。私もMくんを殺したかもしれないが、Mくんも残された家族の、心のどこかを殺した。

 Mくん。君にはヘビセンター訪問を私達に何度も勧めたお父さんの気持ちがわかるだろうか。私にはまったくわからない。でも、その父親に育てられたお前なら、少しはわかったんじゃないのか。どうしてお前は死を選ぶ前に想像できなかったのか。

 Mくんの死からもうすぐ19年経つが、その思いは今も変わらない。

 私はやはり、自分で自分の命を断つことはできない。

畠山 理仁

畠山 理仁

はたけやま・みちよし▼1973年愛知県生まれ▼早稲田大学在学中の1993年より週刊誌を中心に取材活動開始▼大学除籍▼フリーランスライター▼『記者会見ゲリラ戦記』(扶桑社新書)著者▼ハイパーメディア無職 

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