「アタシ」のすすめ(はち)

第27期(2016年6月-7月)

季節の話をしましょうよ。ほんのちょっとだけ。
息抜きですよ。
あなたはいつが好きですか?
春?もし春だったら、春のどこが好き?
緑とか桃色とか、見上げて広がる青と白とか。
ある日突然気付く色の豊かさの、その瞬間が好き?
あ、わかった冬でしょ。
そんな顔してる。
あなたにだけ聞こえる雪の音とその理由。
窓の外の色が失せたせいで、やっと心の色が見えるから?
寂しさを、美しさと呼んでも許されるところ?
まさか秋ですか?
秋ってあんまり、なんか、分かんないですよね。
それとも夏?
あ、アタシですか?
アタシはね、あのね、夜が好きよ。ずるいでしょ。

こうして語りかけてみて、やっとあなたが身近になります。アタシが望んだら、あなたは必ず現れます。だってどれだけ逃れようったってちゃんとそこに居るのだもの。それでね、地球と月みたいだと思ったの。昼間は見えなくて姿もないけど本当はそこにあって、夜を迎える時間が来たら、一体どこに居たのかぼんやり輪郭が見え始めて、今度はどこに逃げたって、あなたの目を避ける事は出来ないの。小さい頃に、どれだけ移動しても月が同じ場所でじっと見下ろしている事に気が付いて、怖くなって逃げようとした事、ありませんでした?だからあなたは月にいるの。地球が無くならない限り、あなたは消えません。
アタシがこの一週間、欲に駆られてどんなに気持ち悪い事をしていてもあなたは知る事が出来るの。
地球から月を見上げた先人は、丸い輪郭の中にウサギを見たけれど、月に居る、あなたの目で見るアタシは、女の子の姿をしていれば良いと思う。
あ、女の子になりたい、という事ではないんですよ。なんか自分でもすごく難しい問題なんだけど、男でも女でも、とにかくアタシは自分以外の誰かになりたいのだと思うの。そこでアタシは「アタシ」を借りて、やっとあなたとお話が出来るようになります。「オレ」だと、自分からあまり遠ざかれずに何も言えない気がするし、「ウチ」だと軽薄ですぐ股を開きそうだし、そうすると「アタシ」が一番良い。
あなたは自分の事をなんと呼ぶの?あ、さっきから質問が過ぎますか?月と地球はお互い干渉しすぎてはならないという条約がありそうですね。NASAが月に行ったのも、実は虚偽だという噂もまことしやかに囁かれる程だから、暗黙の上で結ばれた、ロマン指向な条約が規定されているのかもしれません。それくらい、近いようで遠いんですね、アタシ達。月とスッポンの方がまだ近い。でも、これももうすぐ終わりにした方が良いかもしれませんね。

喫煙所で吸うタバコはまずい。普段から美味しくて吸ってるかって、別にそんな理由で煙を吹かしてる訳じゃ無いけれども、気を使って自由に吸えないタバコは味覚で感じる以上にまずい。タバコはロケーションが味を左右するよな、食事以上に。横にいる早紀ちゃんにそう話しかけたら、それやったらあたしええトコ知ってるわ、そこ行こか、といって喫煙所を出て、校門前の信号を渡り、ちょっと歩いてバス停のベンチに腰掛けた。
「ええトコってここ?」
「そやで。全然人けえへんねん。ボンちゃんがおらん時だいたいここでタバコ吸ってる。」
それほどええトコでもなかったけど、まあ、喫煙所よりもだいぶマシ。バスの駅名標には「寝屋川市役所前」とあり、ずっと通ってる学校のすぐ前に市役所がある事に初めて気付いた。丸い駅名標の下の時刻表には、それほど多くない発着数が書かれてあって、その四隅、右下の方にマジックの汚い字で「アホ」「シネ」と主張したいのかしたくないのか、気の弱そうな小さい字で落書き。どんな知能指数の持ち主であればこんな事を書いてやろうと思えるのかしらと思えば、近くにあるのはうちの学校じゃないの。同じクラスの長谷川がこんな事しそう。あいつのIQ多分84以下。
決まった訳でも無いのに勝手に槍玉に上げられた長谷川に、都合の良い怒りの矛先を向けて、心の中で罵倒するのは気持ちがいい。ややあって、心の中でひとしきり罵倒すると今度は申し訳ない気持ちが起こり、あんな長谷川にもお母さんがいて、毎日帰る場所があるんだ、良いところの見えない奴でも、等しく人の子なんだ、バカにするのは長谷川を愛する人たちに申し訳ない。と必要のないバックグラウンドにまで思い至って、ちょっと泣きそうで、アタシの感傷は簡単すぎる青二才。
「さっきから何をそんなに時刻表見つめてんのんな。老眼のおばはんみたいやで。」
早紀ちゃんに声をかけられるまで、ずっと時刻表を見つめていたアタシはおばはんのようだったらしい。なんでおっさんじゃないのか。やっぱりアタシにはどこか女の匂いがするのか。「オカマみたい」と言われたみたいで、嫌だ。アタシはオカマではないもん。ちゃうねん、もっと、綺麗やもん。
「これ見てや。ここの落書き。アホみたいちゃう?なんとなく長谷川やったらやりそうやなと思って。あいつ先生来る前に黒板に同じような事書いたりしてるやろ。」
時刻表を指差しながら、ここの所ずっと自分に課している、可能な限りの男らしい口調をここでも実践して、ボクはちゃんと男性ですよ、と暗に示す。
「ええ。長谷川って誰やのよ。長谷部やろ。」
間違えていた。すぐに人の名前間違えるのだ。アタシのIQも多分84くらい。知能指数も、性別も、境界線。

来週の月曜日が夏休みの前日、終業式で、そんなのアタシも早紀ちゃんもわざわざ来ないから、実際の上では今日が終業式。早紀ちゃんと仲良くなったのは2年に入ってからで、「なんか可愛らしい顔の子おるなと思っててん。」という言葉から始まり、それまで早紀ちゃんの事なんて太ったおばはんくらいに思ってたのに、相手からの好意を認めると、途端に早紀ちゃんの存在を肯定出来るようになって、要するに、始めはバカにしていたのだ。そもそも、この学校に通っている人間をバカにしている。同じ穴の狢だけど、アタシより確実にバカだと思っている。教師ですら。や、教師の方がもっと。
高校生にもなって、中学と同じようなお友達ごっこなんて、バカらしくてやってられません。どうぞどうぞ君たちはご自由に。仲間意識以上の面白いことなんて何もない不毛な会話で、幸せなフリをし続けて下さいな。一生。とか、ちょっと誇張したけど、だいたいこんなような、これこそ不毛なことを考えながら一匹狼を演じては、時折聞こえてくる友人同士の会話から、案外本当に面白い、単純にセンスのある、笑える掛け合いを見いだしたりして、自分の歪んだ価値観を不安にも思った。
そんな中で早紀ちゃんだけが声をかけてくれて、やっと友達が一人出来て、授業中の飲食とか、私語とか、隣同士になるよう席を取るとか、いままでバカにしていた事と何も変わらない事をするようになったのだった。だから、早紀ちゃん以外に、この学校に思い入れはないの。
学校以外でほとんど会う事がない早紀ちゃんと、夏休みに入っても会うかどうか、ちょっとわからない。でもまあ、会えなくても別に良いかなとも思う。
「早紀ちゃんさあ、夏休み」
お互い口にしないけど聞いてみたって良いんだし、夏休みの予定はなんかあるのん、と聞くつもりで声をかけ、早紀ちゃんを見ると、注射器を持って、針を腕の間接の内側に刺して悦に入っていた。その見た目は確実に中毒者のそれ。
「あかんあかん!こんな所でしたらあかんって!なに考えてんねん!」
「いや!びっくりした。なによちょっと。勘違いせんといてくれるう。あたし糖尿持ちやからインスリン注射せなあかんだけなんですけど。」
「びっくりしたあ。それやったら前もって言うてよ。早紀ちゃんが注射器なんか持ったら覚せい剤にしか見えへんねんけど。」
「ちょっと大きい声でいいなやそんな事!あたしポン中なる前にやめてるから、そんなもん、ほとんどしてへんちゅうねん。」
いや、でもいま注射針を腕に刺しながら顔は完全に悦に入っていたし、あんな気持ち良さそうに注射する人初めて見た。ていうか糖尿病って、初めて聞いたけど。教えてくれたら良かったのに。
「でもな、なんやかんや、あたし、やってたからさあ。注射の針が腕に入っていく所とか見るとな、あ、ちょっとやばいな、って時あんねんよ。」
ほとんどしてない、というのは嘘だと思う。それってフラッシュバックってやつ?と聞く前に、アタシと早紀ちゃんを強い光が照らして、ほとんど人が乗っていないバスがプシューと空気を吐き出し、前に止まった。
「ボンちゃん、乗ろ。取りあえず。」
「え!どこ行くん!」
「お願い。行こ。」
「ええー。なんなん。」

なんで早紀ちゃんが突然バスに乗り込んだのか全然わからず、ひとまず乗ったは良いものの、そのバスは京阪電鉄の寝屋川駅が終点で、学校から目と鼻の先、その間バス停も二つしか止まらなかった。結果学校を早引きした形となって、あとは9月まで学校へ行く事はない。
なんでバスに乗ったのか、と早紀ちゃんに聞いたけど、夏やから、としか答えてくれず、突飛な行動は、やっぱりあれは覚せい剤だったのではないか、と思わせて不安になる。まだ時間は19:20くらいだから、外は昼の名残を留めて、目がちかちかする深い青。
早紀ちゃんはここでも突然、難波に行きたい、ちょっと買い物に行きたいと言って聞かず、なんで難波に、と聞いても、夏やから、としか答えず、そのフレーズがお気に召したご様子。アタシもバスに乗った瞬間から実はちょっとワクワクしていたから、今から沖縄に行こう、と言われたって付いて行けそうな心持ちだもんで、何はともあれ京阪電車で淀屋橋まで出て、御堂筋線でなんば行きに乗る。その車中、金曜日の御堂筋線というのに運良く座る事が出来て、一番端のシートに2人並んで腰掛けた。地下を進む御堂筋線は、窓外に闇を照らすライトが一定の感覚で左から右へ流れて行き、疲れたサラリーマンの上を過ぎるのを見ていると、そのコントラストがなんとなく面白い。早紀ちゃんも前を見て黙っていたけど、急にアタシの耳へ顔を近づけ
「見て。前、前。あれな、皮膚病。」
と耳打ちされた。同じ光景を見ていると思っていたけど、早紀ちゃんは前に座る人を見ていたようで、皮膚病ってなんのことよ、と前を見やると、疲れたサラリーマンの右側に、若いのか老けているのか、全年齢対応みたいな顔の女の人が極端すぎる内股で眠っていた。内股くらいしか特徴が無くて、何が皮膚病、どれが皮膚病、ていうか不謹慎、と思いつつ観察すれば、彼女の履いているレギンスのその色が、延々と殴られ続けて出来た青タンが足全体に蔓延しちゃいました、みたいなタイダイ染めで、これの事を言ってるのかと分かった時には、その的確すぎる不謹慎な表現と、全体的に幸が薄めの女性の顔つきのせいで狂ったように爆笑した。皮膚病って。早紀ちゃん最低。
なんばーなんばーと男性のアナウンスが流れるまでそれは続いて、後半はほとんど惰性で笑ってた気がするけど、早紀ちゃんといるとこうして笑う事が出来る。面白いから、とか、安心出来るから、という感情を飛び越えて、笑う事が許される。

買い物をしたいと言ってわざわざ難波まで出て来たくせに、ほとんど服や雑貨は見もしないで、今度はお腹空いたから早くご飯に行きたいと言い始めた。今日の早紀ちゃんはなにかワガママ。嫌な事でもあったのかしら。ボンちゃんが働いてる店行ってみたいわあ、と言われたけどそれは恥ずかしいし、すぐさま却下して、ひっかけ橋の方まで歩いたら、見飽きた汚い道頓堀川なんかを見て、端の欄干に身体を預けつつ、何食べようか、まあ飲めたらなんでもええわ、という大体いつもと同じやり取り。早紀ちゃんの、肩くらいまであるボブカット風の髪が風に揺れると、ギラついた美しくないネオンがかっちり背景として収まる様は、夜の女の業を背負っているように見え、なんか、使い方を間違えてる気はしても、オリエンタル。何を食べよう。
「ボンちゃん、気悪くしたらごめんな。」
風に吹かれて話す早紀ちゃんを見ながらはて何を食べようか逡巡していたアタシは、聞いているようで聞いていなかったその文言に、一瞬の間を置いてから不吉な話の入り口にハッとして、何を言い出すのかと思う。
「なに?」
「あたしなんとなくわかんねんけど、ボンちゃん男の人好きなん?」
ギクリとした。脂汗が身体から瞬く間に吹き出すのが分かって、そんなに暑くもない日なのに人体は今日も不思議。黒く波打つ墨汁みたいな道頓堀川や、そこに映り込むグリコのやその他の看板から、目が離せないでいる。やっぱりそう見えるん。皆がアタシをそんな風に見てるん。
「なんでそんな事聞くの?」
「あ、怒った?ごめん。別に偏見とかなくて、あたしなんとなくわかるねんなあ、そういう人見ると。」
「オカマっぽいって思うから?」
「や、ボンちゃん寧ろオカマっぽいとかあんま無いけどな。なんとなくよ。まあええかこの話は。」
アタシはそれを聞いてどちらかというと安堵した。アタシはその、オカマっぽいという事だけが異様に嫌で、テレビで見るようなオカマタレントと同じだと、自分で認めるのが恥ずかしいのだった。アタシアタシと見も知らぬ誰かに語りかけたりはするくせに、プライドだけが一丁前で、このあきらめの悪さもまた、往生際が悪くて情けないのは分かってる。けど、でも。
「男の人が好きやで。最近やっと認めれるようになった感じ。でも世間のオカマタレントみたいなんと一緒にせんといてな。」
「え、してへんよ。全然違うやん。」
「なんかそんな気がしたからさ。」
「それどっちかって言うとボンちゃんのほうやろ。」
分かってるもん、そんなこと、と喉の奥から出そうになって、すぐに飲み下した。なんか、早紀ちゃんの方が怒ってるみたいな口調で怖い。早紀ちゃんが怒ると、アタシはなにも言えなくなる。

未だに店を決められずに、ぶらぶら法善寺横町の狭い筋や、千日前商店街のあたりを物色するけど、こんなに店はたくさんあるのに、そのどれもが同じに見えて決定的ななにかが足りず、このままなにも決まらない感じすらする。決める気が無いのかもしれない。ひっかけ橋を抜けてから早紀ちゃんと喋ってはいるけれど、内容の一つ一つが間を持たせるという以外に意味を持っておらず、ちぐはぐなまま、じっくり時間が流れて行って、それがしんどい。
早紀ちゃんは多分怒っているのではなく、単に気を遣ってちょっと口数が減っただけだと思う。だってアタシも早紀ちゃんも、誰も悪くないもの。
「ボンちゃん、もう帰ろっか。あたしなんかしんどいわ。」
アタシのせいだ、アタシが、変にこだわってしまって早紀ちゃんに気を使わせて、気分を害したのだ。さっきまで笑って楽しかったのに、一変して全てがうまく行かない。
「うん。ボクのせい?」
「言うと思った。違うねん。今日さ、ボンちゃんに言おうと思ってた事があるねんよ。店入ってから話そうと思ってたんやけど、ちょっと体調悪い。あかんわ。」
今日は突然バスに乗ったり、難波に行きたいと言い出したり、なんか様子がおかしいと思ってたけど、やっぱりなにか含みがあっての事だったみたいで、なにを言い出すのやら怖い。
「あたし糖尿持ちって言うたやんかあ。それがあんまりええ事無いらしくて。あたしタバコもお酒もやるやろ?それも影響してるんかもしらんけど、体調も悪くてさあ。まあ詳しい病名とか忘れたけど、合併症起こすようなところまで来てるらしくてな、夏休み入ったらすぐに入院するねん。期間はまだわからんけど。人工透析とかなっても嫌やし、一生付き合っていく病気やし、頑張るしかないなあって感じで。それで学校な、とりあえず休学することになってん。もしかしたらやめるかもしれん。しんどいし。」
そう話す早紀ちゃんの口振りには沈痛な気配もなく、至って正常に見えて、もし気丈に振る舞ってるのだとしたら、それもアタシのせいに思える。
「そうやったん。全然、体調悪いのなんか気付かへんかった。知らんかった。」
「そやねん。はよ言おう思ててんけど、最近ボンちゃんまた学校休みがちやったやろ。だからタイミング逃したわ。ごめんやで。」
最近アタシがなんの為に学校を休んでいたか、考えるだけでおぞましい。出会い系で、男を探すためである。毎晩毎晩、自分を慰み者に貶めて。
「ちゃんと学校行ってればよかった。早紀ちゃんおらんなったら、さらに学校なんか行く気なくすわ。」
「グフ、グフフ、なにやのよその顔。あたし死ぬんと違うねんで。やめてくれるその顔。今日最後に
飲んだろ思とったけど、そんな辛気くさい顔してる男とどっちみち飲まれへんわ。」
下卑た笑い方も健在で、女傑じみた口調も相変わらず。何を言えば早紀ちゃんの救いになるのか考えて、余計に言葉が出てこない。早紀ちゃんは、なんでこんな時でも早紀ちゃんでいられるの。
それから、今日は早紀ちゃんのお姉さんの家が難波からそれほど遠くない大正区にあるというので、そこへ帰るという事になってタクシーでお別れ。絶対お見舞いに行くから、とか、病院で暇な時はすぐに連絡して、とか、やっと言えたのはそんなありきたりな言葉で、プクプク肥えて笑顔だけが可愛らしい早紀ちゃんを見送った後に残ったのは、異様な寂しさだけだった。
その寂しさがしんどくって、当ても無くただ歩き続けたら、本能的にひっかけ橋まで来ていて、人だらけで騒がしい。見る気もないテレビのスイッチを入れる時のように、ただの雑音が欲しかったの。さっき早紀ちゃんと身体を預けた欄干にもたれて、今日はiPhoneを触らないでいた。大人になりたくないって、以前強く思った気がするけど、いまは早く大人になりたい。大人になって優しくなりたい。早紀ちゃんみたいに。
橋にもたれながら下ばかり見て考えていたら、視界を横切って行くのは足、足、たまに車輪。気まぐれに限界まで頭を上げ、首の皮に引っ張られた口がぽかんと開いたまま空を見ると、雲が一つもなく、お月様はぼんやり明るく、少ないけれど星が見える。晴れた夜空はきちんと綺麗と呼べる代物だけれど、その感慨は、たった少しの感動は、アタシの醜さを飾るための偽物に思えて、またすぐに下を向く。早紀ちゃんの病気の事も、学校に来れなくなることも、それがために寂しく感じていたはずなのに、寂しさという感情そのものが勝って、いま頭を巡るのは、自分の性別にまつわることばかりだった。こんな時にも、アタシは、アタシの事しか考えない。
そうして視界を横切って行くものは、足、足、たまに車輪。

アタシだってもう、オカマに見えるのが嫌だとか、一緒にしないで欲しいとか、そんなこと本当は限りなくどうでも良くって、最後に残った男のプライドめいたモノにすがりついているだけであって、このハリボテを取っ払ったら、それこそ後戻りが出来なくなるのではないかという恐怖だけ。戻ろうにもそんな道最初から無ければ、すでに進み過ぎ。男の子とキスだってしたし、その影を追いかけて知らない男と寝たりもした。しかつめらしく「アタシのすすめ」を読んで告白が云々、おべんちゃらを吐いて、「アタシね」と頭の中でだけ息巻いてみたって、現実には言いたい事なんて何も言えない。論理だけが勝ち誇って頭に居座り、物事をややこしくするだけ。全く意味がない。男が好き。たったそれだけの事じゃないか。どうだっていい。勝手にすればいい。アタシにはどうしようもない。このどうでも良さに気付けなければ、今日の悲しみも、明日の喜びも、これから過ぎて行く景色だって、全部が偽物のまま終わる。いまに立ち行かなくなる。きっと。
難波から家に帰り着くまでの間に、延々とそんな事ばかりを考えていたら、ベッドに入っても中々寝付けず、真っ暗な部屋に明かりを付けて、テレビのリモコンを押した。
深夜のテレビが煌煌と映し出すのはテレビショッピングで、今日の商品はなんとかコーティングを施した包丁だった。柔らかいトマトや、魚の小骨もなんのその、軽快に分割されて行く食材は見ていて気持ちが良くって、そのまま液晶まで切れてしまいそう。ほら、普通だったら赤く汚れるまな板だって、こんなに真っ白!実はこれ、トマトも切られた事に気付いてないんです!
「これはほんとにね、アタシのおすすめ!毎日の料理がすごーく楽になるわよ!」
実演販売員として番組に招かれている男の人は、自分の事を「アタシ」と呼んで、なおかつオカマ口調だったけど、戯けの材料として、「アタシ」を使ってる。
一つ欠伸をしたら、少し眠くなった。番組が終わるより前にテレビを消してしまえば、電球の一つ切れてしまった天井のランプだけが、部屋の四隅も照らし切らずに灯っていて、この部屋には包丁よりも電球が必要、という事を思い出した。
「あのね、包丁はよく切れるものがいいけど、電球はなかなか切れないものの方が、いいわよねえ〜。そこで今回紹介するのはこのLEDライト!ほら、見て!見て!」
テレビの中だった実演販売員が頭のつむじあたりに現れて、アタシに電球の実演販売を始めるのでした。はいはい。