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2F/当番ノート

非日常を迎える

当番ノート 第27期

高松に来て、ちょうど3年が経つ。
高松に来た理由を聞かれて答えを濁してしまうのは、「瀬戸内国際芸術祭がきっかけ」という理由が、気恥ずかしいからだ。
(なんだか、「それっぽい」感じが…)

「アート」と呼ばれるものに初めて触れたのは、大学二年生。
2011年に、熊本市現代美術館で開催されていた小谷元彦という作家の個展だった。

その日は、毛皮のマリーズの解散ライブだった。「ああ!わたしは、ボロボロのTシャツに便所サンダルひっかけて、恋だの人生だのと喚くように歌う志磨遼平が好きだったのに!」と、メジャーデビューをしてからの彼らを追うことがなくなっていたため、油断をしていたら福岡公演のチケットを取ることができず、友人と熊本まで遠征して行ったのだ。

友人と一緒でなければ、また、旅先でなければ、美術館に入ろうとはしなかったと思う。
漠然としたイメージすら持たないままに、展示会場に入ったわたしを捉えたのは、「痛み」だった。

真っ白なワンピースを着た少女が握るラズベリー、ぐるぐると回りながら赤から白へと色を変えてゆく大きな円、作家自身の血で作られたというシャボン玉、渦の形をした拷問危惧とそれを身につけて暗い海に漂う女性、髪の毛で編まれた黒いワンピース。

自分の身体から溢れた血を、意識の遠いところで、冷静に眺めているような感覚だった。作品が拘束する身体の一部分、髪の毛や、指先が、金縛りにあったかのように、わたしの身体の動きをも奪っていく。

それは、初めての体験だった。

自分の中に生まれる感覚を捕まえようとして、必死に言葉を探しても、それを表現する言葉がわたしの中にはなかった。この感覚を、自分のものにしてしまいたいという衝動が、ふつふつと湧きあがった。言葉でない感覚に向き合う作業は、果てがなく、もどかしかったが、わたしは密かに興奮していたのだと思う。自分の奥底にある意識を何度も引きずり出し、自分の感覚を確かめていく作業に、わたしは夢中になった。

以来、「アート」に興味を持ったわたしは、美術館や作家を調べるようになった。そして、その内の早い段階で「直島」の存在を知った。

強く興味をひかれたのは、過疎化が進んだ、自然豊かなその土地が、自分の生まれ育った土地とよく似ていたからだと思う。

もしも、故郷の愛南町にアート作品があったなら、こんな風に、たくさんの人が訪れる場所になるのだろうか?そんな想像をせずにはいられなかったが、頭の中のその光景は、全く現実的ではなかった。だからこそ、いつか訪れてみたいと思っていたその場所に初めて訪れたのは、大学三年生の夏、入ったばかりのゼミの合宿だった。

ゼミ合宿を企画したのは、わたしと、ゼミの教授(ちょっと風変わりな)だ。文学部のゼミだったので、アートに興味のある人はほとんどおらず、そこが、「島」という場所でなければ、合宿という形で、みんなでそこに行くことはなかっただろうと思う。対して、海と山に囲まれた場所で生まれ育ち、わざわざ自然のある場所へ旅行しようと考えたことのなかったわたしにとっては、「アート」というきっかけがなければ、「島」は、訪れることのない場所だった。

一泊二日の合宿では、「直島」と「豊島」に行った。ほとんどの作品は観て回ったが、作品自体のことは、あまり思い出せない。

二日間で特に印象的だったのは、大竹伸朗さんが手がけた銭湯「I♡湯」のご近所に住んでいる年配の女性が、作品のできるまでのこと、作家と話したことなどを、楽しそうに話して聞かせてくれる姿だった。

そして、海や山、田畑、そこにある「見慣れた風景」の中で、声を上げて喜んでいる自分がいることに気付いた。中学生の頃、自転車で片道20分かけて通学していた海沿いの道を思い出した。坂を登った場所から見降ろす海は、晴れていると透き通って珊瑚が見えた。こうして別の場所で見る自然は、その当たり前の美しさを、新鮮な気持ちで思い出させてくれた。

「直島」「豊島」に行き、自然の中にある作品とそれに関わる人の姿を見ていると、「アート」の可能性は、どこまでもどこまでも広がっていくようだった。

夏が終わって、次第に就職活動が始まった。説明会や面接のために各地へ行く時も、美術館を調べては移動していた。思えば、第一志望の面接が終わったあとも、大急ぎで電車に乗って森美術館へ向かったのだから、本当に、情けない話である。ちょうどそのときに観た展示が、森美術館での会田誠さんの個展「天才でごめんなさい」だった。

そして、会田誠さんも参加する「瀬戸内国際芸術祭2013」が開催されるのが、その年の春だからだった。アートに関わる仕事に就きたいとは考えていなかったが、就職活動の一環だと自分の中で言い訳をして、ゼミ合宿以来の島へと向かい、一週間、瀬戸内国際芸術祭のボランティア団体「こえび隊」の活動に参加した。

活動内容は、会場の最終清掃と、会期が始まってからは、各島に点在する作品の受付だった。それ自体はとても単調な仕事だが、自分にとって、アートはスーパースターのような存在だったから、その一部になったかのような日々は、充実していて、とにかく毎日が楽しくて、その一週間の滞在の間に、福岡から香川に引っ越すことを決めた。

それまで、例えば留学をしたり、大学や地域の活動に参加することもなく、出かけるといえばライブくらいだったわたしが、なぜ、そのとき、そんな行動をしたのか今でも不思議だが、香川へ行こうと決めたときから、そこへ住むだろうという予感があった。

ゼミの教授は、香川でもきちんと卒業論文を執筆すること、定期的にゼミに参加することを条件に、香川へ行くことを許可してくれた。両親に頼みこんで、アルバイトをして引っ越し資金を貯め、二か月ほどで、本当に、福岡から香川県に引っ越してしまった。

香川では、安いアパートを借りて、アルバイトをしながら、時間を作って芸術祭のボランティアに参加した。会期中は作品の受付だが、会期外は、作品の制作に参加することができる。実際に作家に会えるのが嬉しかった、というミーハー心があったことは間違いないけれど、手を動かして、何かを作ることが楽しかった。

小学生のとき、自分にはものを作る才能がない、とはっきりと自覚した瞬間があって、以来なにかを作ることはなかったのだが、手を動かしていると、自分が誰かの役に立っている、という充足感があった。

けれど、作業を終えて、家に帰ってしまえば、わたし自身には作りたいものがない。

作家や、スタッフをする人たちの生き生きとした制作作業を間近で見るたびに、自分の中に、空っぽになったような寂しさが残っていった。

瀬戸内の島々に通ううち、その土地に住んでいる人たちとも話をするようになった。多くの人は、作家や作品のことを、大切な友人のことのように話してくれたが、あるとき、偶然話がはずんだ人との会話の中で、「たくさん人が来ればいいわけじゃない」という言葉を聞いた。

その言葉は、アートをスーパーヒーローのように思っていた自分に、ずしりと刺さった。その島で生まれ育ち、夏の間はアイスクリームやジュースを売っていたその人は、穏やかな口調から、徐々に言葉を強くして「島に元々あった魅力が、アートに取って代わられてしまう」と、言い放った。

その言葉が刺さったのは、自分自身がアートをきっかけに島へ来ているという事実を見透かされたようだったからだけれど、多分、それだけではない。作品制作のあとで、どこか空っぽになったかのような寂しさを感じていたわたしは、その言葉に、共感したのだと思う。

「アート」は、その存在が、強すぎた。

直島や豊島のように常設される展示もあるが、そのほかの多くの島の作品は、芸術祭が終われば撤去される。「アート」によって、たくさんの人が訪れたその土地に日常が戻る。たくさんの人が、芸術祭をきっかけに初めてその島に訪れることになっただろうし、その人たちの中には、何度もその土地へ訪れる人もいるはずだ。

それでも、「アート」が去って行ってしまったとき、元々そこにあるものよりも、何かがなくなってしまった、と、思ってしまうことがあったのだった。

ただ、それは、自分の底から生まれてきたのではない表現に触れたことで、自分には表現したいものがないのだと知ってしまった自分の寂しさを、土地に、無理矢理重ね合わせすぎていたのかもしれないけれど。

「アート」を否定することはできなくて、わたしは「アート」とは何だろう?という問いを、自分に投げかけてはその答えを探し続けていた。誰を救うでもない問いかけを続けながら、高松に暮らして3年目。もうすぐ、芸術祭の夏会期が始まる。

あれ。

ふと思えば、今のわたしに、3年前に感じた喪失感はない。

こうして、ここに文章を書きながら、高松での3年間を思い返してみる。

そうだ、「人だ」と思う。

ここに来てから、わたしは確かに、人と出会ってきた。
その人たちは、表現者であったり、表現に向きあう人であったり、ただ、一緒に幸福な時間を過ごしてくれた人だ。

その人たちのことを、これから書いてみようと思う。
「アート」が、他者の表現たちが、羨ましくて、眩しくて仕方がなかったわたしが、ちょっとだけ、自分の日常もいいものじゃないか、と思わせてくれた人たちのことを。

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中田 幸乃

中田 幸乃

1991年、愛媛県生まれ。書店員をしたり、小さな本屋の店長をしたりしていました。

Reviewed by
猫田 耳子

2010年頃、私はアートと『一時離婚』することにした。
なのに、まさか、このような形で自分の想いが引きずり出されようとは思わなかった。

アートに関わっているとき、誰かの作品に触れたとき、自ら作品を生み出しているとき、
心の、いやそのもっと奥が熱くたぎっている予感がして、どんな異性に対するものよりも熱くって
それは恋情だと自覚した。

愛ではなく、それは恋。だからきっと、いつか終わる。
それを愛に昇華させられるか、それとも立ち消えさせてしまうのか
自信がまるでなかったから『一時離婚』なんて手段をとってしまったのかもしれない。

その恋が、私に与えてくれた力とは一体何だったのだろう。

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