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2F/当番ノート

石を積む

当番ノート 第27期

本を買ったタイミングって、突き詰めてみるとけっこう面白い気がする。自分の興味がよくわかる。わたしは、普段あまり本を買わない(書店員なのに)から、尚更。

ほんの数日前、働いているところよりもずっと大きな書店へ行って、勢いづいてレジまで持って行ってしまった一冊が、李龍徳『報われない人間は永遠に報われない』。
「恋愛そのものが根源的に抱える出口のなさを映し出す」「現代を見事に映した秀作だ」と帯に寄せられた賛辞を読み、思わず購入した。

最近、恋愛とか、結婚についてよく話す。
結婚している人ともしていない人とも話すし、男の人とも女の人とも話す。
何か答えが導きだされることはほとんどなくて、だから、色んな人と話しているのだと思う。

恋愛ってなんだろう。
人と付き合うって、なんだろう。
そういうことを考えるようになったのは、最近のことだ。

わたしは、香川で知り合った人たちのことがとても好きで、町の雰囲気(店や人の多さ)もちょうど良くて気に入っている。けれど、香川にずっと住むのかは、わからない。そもそも、今のわたしには、住みたい場所というものがない。
いつか決められるのだろうか、そのきっかけはなんだろうか、と未来の自分に尋ねてみると、「結婚かなぁ」とぼんやりと答えが返ってくる。結婚したこともなければ、その予定もさっぱりなくて、そもそも人と付き合ったことすらないのに。(…)

住みたい場所は特にないし、地元に帰りたいという気持ちもない。

でも、結婚とか、何かきっかけがあれば、地元に帰ることだってあるかもしれない、とも思う。

去年、「帰省」という形ではなく地元・愛南町へ行った。
宮脇慎太郎という香川在住の写真家が、写真の仕事で愛南町へ行くことを知り、一緒に連れて行ってもらったのだ。

宮脇さんは、Book café Solowという本屋を運営している。迷路のまちの本屋さんとして知り合ったけれど、本のこと以外にもあれこれ話を聞いてもらったり、カレーを食べに行ったり(六ろくというとてもおいしいカレー屋さんがある)、なタ書のキキさん同様、とてもお世話になっている。(あと、最近、バンドを組みました。アイリッシュバンド!)

宮脇さんの方がずっと愛南町のことをよく知っていて、尋ねられたこともほとんど答えられない自分が情けなかったこともあり、一緒に行きたいと思った。宮脇さんが話してくれた「外泊」という集落を、わたしは名前すら聞いたことがなかった。愛南町の西海半島にあるその小さな集落は、台風や冬の風から民家を守るために積み上げられた石垣に囲まれている。

宮脇さんの仕事が終わるまでひとりで外泊に行くことにした。外泊行きのバスは、わたしと、ひとりのおばあさんを乗せて海沿いをぐんぐん進む。その日はよく晴れていて、海がとても眩しかった。漁港の風景はよく似ていて驚きはないが、退屈ではなかった。わたしは元々、海を眺めるのが好きなのだ。

予定を全く決めていなかったから、外泊に着いて、とりあえず歩き回ることにした。集落の真ん中あたりに川が流れていて、そのまわりの柵に干してある布団が気持ちよかった。昔は、その川で洗濯をしながら井戸端会議をしていたそうだ。何枚も干された布団が、その光景を思い起こさせる。

石積みは確かに美しかったが、それらに囲まれて何をするでもなく歩き回っていると、そこはもう「風景」ではなくなった。わたしもその土地の一部になる。ひとつひとつ、石を積み重ねる手が見える。

嵐や海風に負けぬよう積み上げられた無数の石は、ひとつひとつが、放っておけば危険にさらされてしまう生への執念を纏っているように感じられた。
「なぜそこまでして生きるのだろう?」と、石ではなく、人間の気配に取り囲まれ、問われ続けているようだった。

暑くて、帽子と髪の毛がじっとりとくっついて不快で、気持ちが滅入った。宮脇さんの仕事が終わるまでまだまだ時間があったので、外を歩くのは諦めて、休憩所に入った。見晴らしのいい場所にあって、メニューにはビールやアイス、軽い軽食がある。そこで、普段めったに飲まないビールを頼んで座っていると、地元の人が集まってきた。

どうして仲間に入れてもらったのだったか忘れてしまったが、多分、物珍しかったのだろう。その人たちは、夕方になって仕事を終えると、いつもそこへ集まってお酒を飲んで過ごすのだと言う。よく笑い、よく喋る、その人たちの輪の中にいるとほっとした。

家の倉庫にカラオケの機械があっていつものメンバーで点数を競っているそうだ。その話の流れから、最近おすすめのイケメン演歌歌手を教えてもらった(全然知らなかった)。
奥様の愚痴やら惚気やらを縦横無尽に聞いていると、それぞれの奥様がおつまみを持って登場し、乾きものからお刺身、お菓子でテーブルがいっぱいになった。大宴会となったところで仕事を終えた宮脇さんが登場。「彼氏の登場だ!」と皆さん大騒ぎだが、宮脇さんは二児の父親である。となると、「不倫か!」と更に大盛り上がり。

違います。

ビールをおごってもらって、みんなで記念撮影をして、別れた。

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その年の秋、祭りを撮りたいという宮脇さんと、再び愛南町へ行った。

実家のある愛南町の内海地区では、毎年11月3日に秋祭りが行われる。
わたしの住んでいた柏という集落では、神輿・五ツ鹿・牛鬼・獅子舞などの練り物があり、女の子は巫女の格好をして祭りに着いて回り、各所で舞をする。
わたしも巫女で参加していたが、小さな集落で、人が見に来るわけでもない祭りには、特段思い入れもない。
久しぶりに見た地元の祭りは、知っている顔はほとんどないものの自分たちが参加していた頃と変わりなく、そんなものだよな、と思っていた。

宮脇さんが他の集落の祭りも見たいというので、同じ内海地区内でありながら初めて、家串の祭りを見に行った。

家串は柏から車で15分ほどの地域だが、祭りの雰囲気が全然違っていることに驚いた。
練り物自体も異なっていて、17名の子供たちが踊る相撲練りがあったり、獅子舞も、柏は舞というより暴れているような荒々しい唐獅子(子供の頃から怖かったが今見てもやっぱり怖かった)だが、家串は荒獅子と呼ばれ、もっと踊りらしい踊りをする。表情もどこかひょうきんで可愛らしい。

相撲練りをする子どもたちは人懐こい子が多くて賑やかだった。
しかしわたしは、その日見た、荒獅子を強烈に覚えている。
そこには、有無を言わせぬ誇りがあった。
自分の踊りを終えた男性が、本当に満足そうに子供たちを見ているのだ。
地域の祭りは、地域の人が子供たちを指導し、一緒に練習して成り立つ。
視線の先にあったのは、我が子の立派に成長した姿だったのか、それとも、指導してきた少年たちとの練習の日々を思い出していたのか。

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その目を、母や、柏の人たちに見せたいと思った。
かっこよくて、涙が出た。わたしは、本当に泣いていた。

宮脇さんが祭りの写真を撮りに行きたいということを、わたしも、母も祖母も、「奇特な人がいるものだネ」と不思議がり、はるばる来てもらっても、と、申し訳なく思っていた。

祭りにしろそこでの生活にしろ、外からの人がほとんどやってこない、娯楽の少ない地域では、繰り返されている出来事がわかりやすい。
それが、不安だった。この先の自分の人生が、すっかり見通せてしまうようで。
なんとなく、柏の祭りからはそういう、自分たちの繰り返してきたことに対する自信の無さが現れているようだった。

それでも、宮脇さんと一緒に訪れて初めて出会った愛南町の人たちには、そんな雰囲気を感じなかった。外の人間であるわたしたちに対して、引け目なんてない。その姿は、わたしには静かな衝撃だった。

外泊でお酒をおごってくれたおじさん達は、きっと今もあそこでお酒を飲んでいる。
もうすぐ夏休みだから、孫が帰ってくるはずだ。
今年もバーベキューをするのだろうか。
秋になれば、今年も秋祭りがある。
そろそろ気合いを入れ始める頃だろうか、それとも年中祭りの日を楽しみにしているのかもしれない。

愛南町に住む人たちのことを、ポジティブに思い起こせるのは、去年の体験があってこそだ。
ひとりでは、外泊に行くこともなく、改めて地元の祭りを見ることも、別の集落まで祭りを見に行くこともなかっただろうから。

宮脇さんの撮った写真を見ると、外泊を思い出す。
石積みが纏うどこか異様な人間の気配を感じ、今、そこで生活をしている人の姿を確かめ安堵する。
宮脇さんの写真に映る光がとても好きだ。
人との出会いを思い出すとき、光るのだ。宮脇さんの写真が映しとる光が自分の記憶の中にも差し込んでくる。記憶が、体温を取り戻す。

嫁の愚痴、旦那の愚痴をつまみにお酒を毎日飲めるように、立派に踊る子供たちを誇らしく見つめるように、同じ流れを繰り返しながら人間関係は変化し続ける。
そこに光を見出せたら、暮らしはガラリと変わるのではないかと、綺麗事かもしれないけれどそんなことを思ってしまう。

わたしはまだ、色んな人に会って色んな場所へ行って、あれもいいなこれもいいな、なんて思うけれど、いつかどこかで、自分の目の届く範囲の人や土地の変化を、注意深く丁寧に見つめる生活がしたいと思う。
今、その準備をしているのだ、きっと。

宮脇さんの愛南町の写真が一冊にまとまったら、もう、愛南中の人に見てもらいたい。

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中田 幸乃

中田 幸乃

1991年、愛媛県生まれ。書店員をしたり、小さな本屋の店長をしたりしていました。

Reviewed by
猫田 耳子

母がわたしを産んだ年齢を越え、見えるようになってきたものがいくつかある。

わたしたちの家庭は確かに上手くいかなかったけれど、日曜18時からのアニメのような普通の幸福を夢描いていたであろうこと。彼らは彼らなりに、生活を愛そうとしていたこと。霞んだ記憶の片隅で、まるでいないかのように振る舞うそれらを見つけてはほんの少しだけ愛おしい気持ちになる。

もうわたしたちの誰ひとり、そこに戻ることはできなくても
愛はたしかにそこに在った。

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