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3F/長期滞在者&more

さよなら春の日

長期滞在者

斜面の両端に植わった桜は零れ落ちる寸前で、淡い桃色を鈴が鳴るように震わせていた。
淡く霞んだ海と空の境界線は曖昧で、途切れることなく船が行き来する。
大きなのと、小さなのと、右から、左から。
3艘の船が白い線を引いて交差するのを見つけて、満たされた気持ちになる。

理加さんは、やわらかな地面に種を蒔くみたいにして話す。

この日豊島へ行ったのは、踊る人でありからだのことを考える人でもある濱田陽平さんの「からだ再発見さんぽ」と題されたワークショップに参加するためだった。

元々、身体を動かすことが好きではないのだけど、最近、妙に身体を動かしてみたい気持ちになっている。

わたしの通っていた中学校では、カヌーとシュノ―ケリングの授業があったのだけど、大方の生徒のテンションと反比例して、夏の間に何度かある「海学習の日」が近付くと、ひとり憂鬱になっていた。それなのに、最近、なぜか海に潜りたいような、なんなら、今年の夏は地元に帰ってシュノ―ケリングでもしてみようかと、中学からの友人とささやかに盛り上がったりしているのである。

「からだ再発見さんぽ」でわたしたちは、理加さんの運営するスペース・てしまのまどから出発して、島の鍼灸院まで歩いた。

この日のおやつは、ハブ茶と手作りのプリン。卵アレルギーの女の子がひとりいて、その子のためにはスコーンが用意されていた。いちごとココナツのスコーンを丸いカゴに入れて、その上にひとまわり小さなカゴをフタにしてかぶせ、ピンクを基調にしたマドラスチェックのハンカチをかける。そこから、ずるいにおいがしてきて、出発早々おやつにしたい気持ち。

しばらく歩いて、鳥居の前の広場で立ち止まる。
二人組を作って、互いの両方の手のひらを重ね、一人が自由に動かす、もう一人はその動きに任せます。
ふむふむ。
こういう、他人から自分の身体の動きを見られるようなこと、すごく苦手だ。
単純なことなのに、こわばっているのが分かる。
簡単なことなのに、とても緊張しているのが分かる。
動かす側と、ついていく側を何度か体験したあとで、今度はついていく側は目を瞑ってみる。
目を瞑ると、手がすいすいついていく。
目を瞑った瞬間に力が抜けたー、と言われる。
ふうん、おもしろいな。

しばらく繰り返して、また歩き始める。

川沿いから海へ出て、豊島に暮らす人たちは、「あれがひじき」とか「わかめの美味しい食べ方って結局何?」「あ、ふぐ!」と話していた。

廃校になった学校の運動場を抜けて、坂道を登りながら、ムスカリという花の名前を教えてもらう。
その人が豊島に来たときに名前を教わって、好きな花だからいつまでも忘れずに覚えているのだそうだ。

ゆっくりと坂道を上っていたら、後方から、一緒に参加しているご夫婦のお子さんが駆けてくる。先頭の大人たちを追いぬいて、先をぐんぐん走るので、わたしも追いかけてゆき、隣に並んで「車がくるから危ないよ」と声をかけると、黙って手をつないできた。
かわいい。

彼女は、色んなところで摘んだ野の花で小さな花束を作って歩いていた。通りかかったレストランの庭で綺麗に育てられた花も摘もうとするので、その花はだめ、と言うと「どうして?」と尋ねられる。そうだよねぇ、きれいだから、花束にしたいよね。それでも「誰かの大事だからだよ」と答えると、花を摘むのをやめて、他の花を指差しながら、これも大事、これも、これも、と歌うように歩いてゆく。

わたしの言葉は届いたのだなあ、と思う。

砂浜に下りて、思い思いに過ごし、あとは目的地の鍼灸院まで何も話さずに歩く、という指示。
途中で見つけた亀を、黙ったままで、囲んで見た。

鍼灸院に到着して、プリンとハブ茶をおやつに、陽平さんのからだの話。久しぶりのお休みだったこの日は、疲れが出たのか朝から少しぼーっとしていて、途切れ途切れにしか話を思い出せなくて、もったいない。今回のワークショップでは見ることができなかったけれど、いつか陽平さんの踊る姿を見てみたい。

陽平さんも、参加していた人たちも、それぞれの場所へ帰ってゆき、わたしは理加さんとごはんを食べ(タイラギと菜の花のパスタを作ってもらう)、ちょっと高いアイスクリームを買って、お花見ドライブへ。

壇山という小さな山に車で登って、どこに座ろうか、とぐるりと歩き、海も桜も見える位置に腰かける。

熱を持った頭の中が、話しながら、すこしずつほぐされてゆく。理加さんは、相手の意見になんとなく同調することをしない。お互いの考えの間にある、わずかな差異にも敏感に気付き、理解できるところまで質問しつつ丁寧に解決してゆく。それは、研究に近いように思う。理加さんのすごいところは、違和感の正体を突き止めるまで観察し続けるところ、その姿勢が、とても慎重であるというところだと思う。

身体を動かしたい、と、理加さんと話したい、は同一線上にあるような気がする。
自分を自分で動かす瞬発力を身につけたいのだ。

てしまのまどに戻ったら、大好きな人が会いにきてくれていて、とても嬉しい報告を聞く。
その報告に至るエピソードがいちいち最高であった。

人に会うのは、いいな。
喋りすぎて、あるいは、重い沈黙に疲れてしまうことは少なくないけれど、ときに、からだが満たされるような対話を経験することがある。

最近、考えていたことに対して、人から言われた言葉がある。
「ひとりでいられる人じゃないと、ふたりではいられないよ」
それが、自分には、あまりに難しいことのように感じていたけれど、今なら少し、希望が持てる。
ひとりでいられる、というのは、強くなるということではなく、自分の思考を放棄しないことなのかもしれない。
そんな風に思うのだ。

中田 幸乃

中田 幸乃

1991年、愛媛県生まれ。書店員をしたり、小さな本屋の店長をしたりしていました。

Reviewed by
小沼 理

”その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせた荒野でないことを知ったように思う。”

僕はいまアパートメントで読書日記を連載していて(そしてそのレビューは中田さんが書いてくれている)、その第一回で須賀敦子を取り上げた。
”ひとりでいられる、というのは、強くなるということではなく、自分の思考を放棄しないことなのかもしれない”という中田さんの文章を読んで、ふと、この『コルシア書店の仲間たち』のあとがきに書かれた須賀敦子の文章を思い出す。須賀敦子の文章の中でも、特に強く印象に残っていた言葉だ。あらためてその前を読み直してみると、今の中田さんとは反対の方向から知った発言のようだけど、お互いが到達した場所は同じに見える。

体を動かすことって、慣れていないと頭で思い描いているようにうまくはできないもので、そうして失敗を繰り返すうちにどんどん強ばって、臆病になってしまいがちだ。それは、気持ちを伝えることについても同じだと思う。そういう時、一人で練習するのもいいけど、ダンスのうまい人に身を委ねるみたいに対話することが効果的だったりする。力の抜き方を覚える、というか。そして、中田さんの周りにはそんな風に身を委ねることができる人が、たくさんいるように思える。

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