島で 三話

第28期(2016年8月-9月)

 めぐを姉のもとへ送って病院を出ると、入口のそばに見慣れた黒い大きなバイクが停められていた。そしてバイクに乗っているのは、この島でただひとりしかいなかった。
「ときこ」
 ハスキーな声が私を呼ぶ。振り返るとまさにバイクの主である、あおいがそこにいた。メタルバンドのTシャツに、革のパンツ。年中黒い格好をするあおいは、白い肌と赤茶のショートカットだけがやけに明るい。
「あおい、どうしてまたこんなところに」
「家まで迎えに行ったら、みどりが病院だって言うから。遠回りしちゃったよ」
「迎えに来るなんてめずらしいことするから」
 私がそう言うと、あおいはわざとらしく肩をすくめて見せる。
「だって早起きして暇になったから」
「どうせ昼に起きたくせに」
 ばれたか、と笑うあおいに、私も昼に起きたことは黙っておいた。それにあおいは飲み屋で夜勤をしていたのだ。私よりまっとうなことには違いない。気付いてたっていいだろうに、あおいは私の言うことを探るわけでもなくそのまま飲み込む。
「ときこ、暑いよ。もう帰ろう。ほら、後ろ乗って」
「あおいの運転、下手だからやだなあ」
「なにぃー? そんなこと言う子は置いてくぞ」
「二十七歳の女に、子はないでしょ」
 そんな身のない話をして、私たちはようやくバイクにまたがった。
 ヘルメットはかぶらない。この島でそうした決まりがないからだ。外から来たあおいは、この島でいろいろ嬉しいことはあるけれど、ヘルメットをかぶらなくていいのはその一つだという。免許がいらないのは、逆に惜しまれた。せっかく金をかけて免許取ったのに、と不満げに、しかし笑っていた。
 もしそれで死んじゃったらどうするの、と尋ねたことがある。そうなったらバイクを永劫禁止にする決まりを提案しておいて、と軽く言われた。そうしたら島で唯一のバイク乗りとして名前が残るからだという。唯一のバイク乗りじゃなくて唯一の馬鹿だよ、とは言わなかった。あおいはそういう、どうでもいいおしゃべりを現実にしてしまいそうな、ろくでもなさがあったから。
 あおいのくびれのない細い腰は、頼りない。後ろに乗せてもらうたび、あおいはまだ二十二歳なのだということを思い出した。
 アパートの前に着くと、あおいが振り向いて私を見ながら不思議そうに首を傾げた。
「ときこ、着いたよ。なにぼんやりしてるの」
 返事せず、あおいのうなじを片手で撫でた。
「え、なに急に。くすぐったいよ」
「キスマーク付いてるよ」
「うそ」
 慌てて手で首筋を覆ったあおいは、しばらく思案顔をした後、
「あー」
 と神妙な面持ちで言うので、思い当たることでもあったのだろう。
「ばーか」
 笑う私に、あおいはごまかすみたいに照れ笑いをした。その手はまだ、どこかの女に付けられたキスマークを隠していた。

 アパート――と呼んでいいのか、住みだして五年は経つ今もわからない。外の言葉を使うものの、実際に外に住んでいた人に聞くと違うものだということがしばしばあるのだ。かといって困るわけでもないから、新しい言葉を作ったり訂正することはほとんどないのだけれど。
 少なくとも私たちが住むアパートは、二階建てだ。築年数ははっきりしないが、かなり古い。白い塗装は剥げているし、苔もそこらじゅうに生えている。鉄製の階段は錆びだらけで、いつ足が抜け落ちるのだかわからなかった。私は怖いから一階の角部屋に住んでいるけれど、二階にも住人はいる。ただ、島に住民が増えて家が足りないと騒がれる今でも、八部屋あるうち、私たち以外に二人か三人が住んでいるだけだった。
 室内は畳敷きが六畳で、風呂はあるけれどトイレは共有。もちろん二人暮らしするには狭すぎる。そもそもは私が一人暮らしていたところに、島に来たばかりのあおいをすこしの間泊まらせるだけだったのだ。それがどうしてか、もう四年も経ってしまったせいだ。
 その時間はあっという間で、短く思えたのだけれど、他人から恋人として信じられるには十分な時間だった。
 本当は恋人じゃない。ただ気が合って、狭い部屋で一緒に住むこと、同じベッドで眠ることに抵抗がないだけだ。けれどそれを言いだせば、母にすぐ実家に戻りいい人を見つけるよう言われるだろう。あおいはあおいで、夜を共にするような様々な女性に「嫉妬深い恋人がいるから」と簡単に話をつけられなくなるだろう。その様々な女性だって、恋人がいる相手とこっそり遊ぶ背徳感を得られなくなるかもしれない。とにかくそうした諸々のことがあって、恋人ということにしておくのが都合が良かったのだ。
 それでもときおり、あおいにとって今が本当に最善なのかわからなくなった。そしてあおいはまだ二十二歳で、私だけが二十七歳だから、あおいもまた私について思うところがありそうにしていた。素直に話し合うには、もう一緒にいすぎてしまった、とこんなときばかり実感した。
 島に来たばかりだった十八歳のあおいだったら、今に満足してくれるのだろうか。

 十八歳のあおい。高校を卒業して、すぐに島にやってきたあおい。髪が長くて、島では見慣れないブレザーを着ていた。島に来る人はみんな元の生活を捨てる覚悟の表れか、持ってくる荷物は少ないけれど、あおいはさらに少なかった。小さな旅行バッグがたったひとつ。 不安も希望も感じさせない、表情を読ませない子だった。
 最初のあおいは海辺にばかり行っていた。島では働かなければ飢えて死ぬということはないし、私も飢えさせる気はなかったから大きな問題があるわけじゃない。ただ外が恋しいのかと思ってずっと心配だった。
 半年経ってもその調子で、荷物はなかなか増えなかった。欲しいものがないのだと、あおいは言った。お金を出せば手に入るものばかりが欲しいなら、外にい続けたはずだと。この島にいられるだけで、十分なのだと。そう言っていたあおいがバイクを初めて欲しがったとき、わたしはひどく安心した覚えがある。バイクを買うために近くの飲み屋で働き出して、邪魔だからと髪を切った。生活費を折半できるぐらいになった。定職につかないでいろんな人の手伝いをこなすだけの私より、ずいぶん安定した。

 あおいは部屋に入るなり畑しか見えない窓を開けて、熱い日差しをさんさんと浴びる。暑い土地で育ったから、島の気候はずっと平気らしかった。島にずっと住んでいてすぐに暑さでばててしまう私は、台所に置かれた扇風機をつけ、首も回さず正面に立った。それから背中を向けあったまま、あおいが言った。
「ときこ、今日はカレーが食べたいな」
「いいよ」
 そういえば、あおいと初めて食べた夕飯もカレーだった。あのときは春だったけれど、夏みたいに暑い日だった。
「ありがとう、ときこ」
 あおいの優しい声色を聞きながら、みどりに貸したDVDを見せてもらおう、とふと思いついた。