島で 八話

第28期(2016年8月-9月)

 一つめの嵐が去った朝、そして二つめの嵐が来る前に、私とモリヤさんは外へ向かうトラックの荷台に乗せてもらった。トラックは日に一度、食料だとか外でしか手に入れられないものを届けてくれる役目のものだった。口数は少ないが気の良いおばさんが運転手で、見返りも求めず乗せてくれるのだ。
 もう少しいる予定だったんですけど、とモリヤさんは言う。
「次の仕事があるし、この島には休みがてら来たのでそう長引かせるわけにはいかなくて」
 しょうがないですよね、と相槌を打つ私に、モリヤさんも困った顔で頷いた。

 外へ出ようとする島の人間は、そう多くない。頑なに拒否してるわけでもなく、ただ必要性を感じない、という風だった。私も小さい頃に父がどうしても見たがった映画に付き合ったときぐらいだ。他の人は島の病院じゃ間に合わない病気のために通院していたりするので、父はかなりお気楽なほうだった。
 今日はこれからそんな父にみどりのことを相談するつもりなのだが、あらゆることが想像つかず、なんだかぼんやりしていた。ようやく意識がはっきりしたのは、トラックに乗るのは私とモリヤさんだけだろうと踏んでいたのに、最後に遅れてもう一人乗り込んだせいだ。
「久しぶり」
 そう言って薄く笑った中年女の、ひとすじ線を引いたような細目をまじまじと見てようやく思い出せた。
 昔、近所に住んでいたキリエだ。私と同じで祖父母の代より前からずっと島にいたわりに、子どもの頃からやけにませていて、外の流行を知りたがった。島のさまざまな男と付き合っては別れ、いずれにせよ結婚は早いだろうと思われていた。しかし結婚に対する理想が高かったせいかしらないが、結婚したのは三十歳になってようやくだった。幼馴染の大工が相手だったのだが、ひと月も経たないうちに男たちが島から出て行かなくてはいけなくなった。外が好きだから一緒に出て行くだろうとみんなてっきり思っていたのに、彼女は島に残った。
 そしてそのうち離婚したらしいのだが、「やっぱり男はいらないが、子供は欲しい」と言い出した。
 島の中でさまざまな商売を始め、外とのやりとりも多い家庭なだけあって、金も行動力もあったらしい。週に一度は外の病院へ通い、知らない優秀な男たちが売る精子を買って人工的に受精し、ひとりで生むのだという。しかしなかなか上手くいかず、四十歳になった今も彼女はひとりだった。
「あんたが外に出るなんてめずらしい」
 おばさんからもらたのだろう煙草をふかしながら、キリエさんは荷台に腰を下ろした。
「まあ、ちょっと用事が出来てしまって。キリエさんは……病院ですか」
「ああ、またダメだったからね。もうそろそろ年齢もアレだからね、次は卵子を凍結させようかって思ってる。わかる? 卵子を凍らせんの」
 聞いたことはある。けれど想像はうまくできない。いつも食べている鶏の卵をそのまま冷たく凍らせるぐらいが、私の頭には精いっぱいだ。
「島の方でも、こういう先進的な方がいらっしゃるんですねえ」
 モリヤさんは感心したようにうなずく。それにキリエさんはめずらしく嬉しそうに話に乗った。
「なあに、この人、外の人なの?」
「ええ、取材なんです。母がめずらしく受け入れたみたいで」
「どうりで島の人間と雰囲気が違うと思った」
 キリエさんとしてはいちばんだろう褒め言葉に、モリヤさんはわけもわからずニコニコしていた。

 トラックが動き出すと、みんなが知っているキリエさんの人生をキリエさんがそれらしく語り、モリヤさんがこまめに相槌を打った。
 その隣で、私は海を見ていた。島の中では、水平線を見る機会がなかなかないからだ。けれどもう次の嵐の気配はあって、空はぼんやりを暗い。波も大きく波打ち、古い道路に水しぶきがはじける。島のほうを見ると徐々に小さくなり、やがて視界に島のすべてが収まると、心もとなかった。キリエさんもモリヤさんもいなかったら、泣いていたかもしれない。小さなボストンバッグと膝を抱える私は、自分が三十年近く生きている大人とは到底考えられなかった。
 まだ先行きは長いだろうキリエさんの話を遮って、モリヤさんはひと言こうたずねた。
「キリエさんはもし、お子さんが男の子だったらどうなさるつもりなんですか」
「外に住むわ。……この子さえいれば、きっとうまくいく気がするから」
 まだ子供がいないはずの、膨らみのない腹を撫でて、キリエさんはそう言いきった。
 その低くはっきりとした声色を聞くなり、なんだか眠気に襲われた私は、朝早く起きたことを思い出して目をつむった。

 外へ繋がる橋は、そう長くない。
 目をつむって間もなく、橋のたもとですぐ降ろしてもらった。ひと気のない海沿いの四車線道路があるだけで、まだそこは外という気はしない。ここで、それぞれが呼んでおいたタクシーに乗り換える手はずだった。
 キリエさんはさっさと病院へ向かうタクシーに乗ったようだが、モリヤさんは瞳をうるませながら私を呼び止めた。
「ありがとうございました、優しくしていただいて……私、とても嬉しかったです。記事が書けたら連絡します。またぜひお会いしましょう」
 涙ぐみながらも、そう滑らかに語った彼女は頭を下げる。まだ寝ぼけていた私は、ごまかすみたいに当たり障りのないことを言った。なんとなく、記事は読みたくなかったし、また会いたいとも思わなかった。
 モリヤさんと握手を交わしのち乗り込んだタクシーの運転手は、女性だった。ここできっと、久しぶりに男性と会うだろうと思っていた私は、つい拍子抜けした。
「どこまで行きましょう」
 キリエさんと同い年ぐらいだろうが、ぽっちゃりとした朗らかな微笑みはキリエさんからは見られないものだった。最寄りの駅まで、と頼むと、運転手はゆっくりと頷いてタクシーを発進させた。
 母は父の住所を聞いても、私が外へ行くことにも、何も言わなかった。先に相談すべきだ、と冷静な私は思っていた。母と姉に、みどりのことを。せめて、それからだ。父に直接会って聞くのは。なのに私はそういうあらゆる過程を省いた。

「どうでもいいよ。だってそんなことしたって、意味はない。長く言葉と時間だけを重ねた末に、まあときこ次第ねって任されるに決まってる。それなら私は……できるだけみどりの求める答えに、なるべく早くたどりつきたい。いや、この私の行動がみどりの求める答えとやらに間違いなくたどりつくかどうかなんてわからないけれど。それでも何か……思うところはあるでしょう? だって私とみどりは……よくにているから」

 タクシーで最寄りの駅まで送ってもらった。それから電車を乗り継いで、バスに乗った。そのあとすこし歩く。その間にいた男性たちは、もちろんこの十年に比べれば死ぬほど多かったのだけれど、少なくとも十年前までは男と一緒に暮らしていたのだということを思い出せた。さしたる違和感はなく、ただ、なんとなくほっとした。
 そんなことよりも私には、誰しもの足が速いことのほうがずっとおそろしく思えた。電車の切符を買うのも、乗り継ぐのもいちいち駅員に聞いて、果てしない。

 目的地に着いた、というときにははっきりとわかった。田舎に違いないのだけれど、なにか島とよく似た雰囲気のある山あいだった。妙に小さくて、やぼったいトタン屋根の家が並び、どこもかしこも手作りの風がある。たしかにここが、町だった。
 時間のせいか、それとも人が出て行ったのか……ひと気はない。これで父がいなかったら、困ったな、と思いながら、表札を探した。名前はもちろん書いてあるのだけれど、何より名字が付いていた。ここは外とそう離れていないし、学校などを作れるほど発展もしていないだろうから、仕方なかったのかもしれない。見慣れない字面から、父の名前を探す。
 と、五軒目で見つけた。赤いトタン屋根だ。背の高い生垣が植わっている。しかし……表札には父の名前だけではない名前が、もうふたつ並んでいた。女と、男。たぶん島にはいなかった、知らない名前だ。間違いか、とも考えたが、島で名前をかぶらせることは許されない。その決まりは、変えるほど不便なものでもないだろう
 迷っていると、中から水音が聞こえたので、そうっと生垣に隠れたまま覗いた。
 庭では、知らない少年がホースで水をまいていた。