島で 九話

第28期(2016年8月-9月)

 白い絹のシャツと黒い半ズボンに、安っぽいサンダルを履いた少年はふいにこちらを見た。薄いまぶたの一重も、短く乾いた黒髪も、私の知る島の誰にも似ていなかった。
 それから彼は、ぎょっと目を大きくさせた。
「ああっ、もしかして、ときこさん?」
 そう声を上げて、水を出したままホースを落とした。私もぎょっとしたまま生垣の陰から動けないでいると、彼のほうから近付いてきた。ホースから水は出てるばかりで、乾いた土に染み込み、やがて水たまりになっていた。私は彼と目を合わせられないせいで、そんな彼の背後ばかり見ていた。
「写真で見せてもらってたんです。高校生の頃と、あんまり顔つき変わってないですね。すぐわかりました」
 まじまじと彼は私を見る。私も覚悟を決めて、彼を見返した。
 やや色黒い肌は、焼けたというより生まれつきのようだった。鼻筋は細く通っていて、小ぶりだ。薄い唇はこの辺りの土みたいに乾いて、皮がいくらかめくれていた。やっぱりいくら見ても、島の誰にも似ていない。そして、父にも。
 改めて家の表札を思い出して、あの名前の並びには一緒に家にいる以外の、何の意味もないのだとわかり、ついほっとした。もう私は大人になったのだ、十年経って、何一つ変わらないことはないことぐらい、わかっていた。
「あ、よかったら上がってください。おじさんは今仕事でいないんですけど、夜帰ってくるんで」
「……それじゃあ、他に行くところもないので、お邪魔します」
 水道を閉める彼の背中に、すこし迷ったような返事をした。けれど本当のところ、迷いはなかった。
 町を歩けばいくらか知り合いはいるかもしれないけれど、まず父に会いたかった。でもここに来るまで、そんなことはちっとも考えていなかったから、すこし自分に驚いた。そういう考え方や、情を持ち合わせてるとは今の今まで知らなかったのだ。
 彼はさしたる疑問もないようで、ただ頷いた。

 家は平屋建てで、築年数はあきらかに十年以上経っていた。もしかしたら、廃村か何かした町を下地にしたのかもしれない。
 中も畳敷きであったり、床下が腐っているようで足裏に妙にやわらかい感触があったりした。
「今コーヒーいれますね。あ、お茶どこにあるかわかんないんで。インスタントなんですけど」
 ひたひたと彼の裸足の音が、台所から聞こえてきた。
「あの、結局、あなたは父とどういう」
「ああ、五年前にうちの母が、ときこさんのお父さんと結婚したんです。ん、再婚? まあいいや。でもまあ、俺としてはまだあんま慣れなくて。だから、おじさんって呼んでるんですけど」
 再婚、と繰り返し口の中でつぶやいた。私は大人で、それでもそんなこと、思いつきもしなかった。この町は少なくとも男だけではないのだ。そして父は、いつのまにか母と別れていたのだ。聞いていなかった。けれど、不思議ではなかった。それでも、物悲しかった。
 口からはごまかすみたいに、別の言葉がついて出る。
「……じゃあ、私たち一応は兄弟なんだ」
「うーん、たぶん、そうなのかな。島の戸籍がこっちでどんなもんになってんのかわかんないですけど。はい、コーヒー」
 ふちの欠けたコーヒーカップが置かれた。コーヒーはなみなみと注がれていて、口を付けるが薄かった。
「ねえ、そんなことより島に男いないってまじなんですか?」
「そうだけど……」
 興味を隠すことなく問う彼は、おおっと声を上げる。
「うわ、すごいなあ。あの、おじさんには聞けないんすけど……島に無理やり残った男はみんな殺されたってホントですか?」
「そんなわけないよ!」
 驚いた私に、彼は軽く笑って見せる。
「あはは、なーんだ。やっぱり都市伝説か。あ、いや、気を悪くしないでください。町の子どもの間で、まあそういううわさが流れてて。そういうの好きだから」
 そう悪気なくけろっと言う彼は、あおいに似ていた。それでもあおいがここに至るまで大人にならなくてはいけなかったのに、彼はまだ中学生のようだった。
「ねえ、この町はもう……普通の町なの?」
「え? あー、そうですね。島のこと、聞いてることしかないんでわかんないですけど、とりあえずこの町はもう男も女もいるし、子どもは普通の学校通ってるし、俺が今までいたところとなんも変わんないです。……てか、たぶん、大人はみんなもうあきらめてんだと思います」
「あきらめてる?」
「だってもう、意味なかったんでしょ。女だけで生きてくなんて。ただ他とは違うことしたかったってだけで。男追い出して、でもそれでもやっぱり、女だけって以外なんにも変わんない。なんの意味もない……」
 何も言えない私に、彼は薄く笑って見せる。やっぱり、彼はあおいとは違った。はっきりと、悪気があった。
 沈黙があった。彼は私を見ていた、私の口がいつ動き出すかを見逃さないようにしていた。あ、だとか、や、だとか、小さく意味のない声をあげているとそのうち、雨が降り出す。ぽつりぽつりという音も短いうちに、ざあざあと大きな水音が響きだす。古いこの家ではよく響く。島の実家を思い出した。
「うわ、ひでえ雨。水まかなくても大丈夫だったなあ」
 慌てて雨戸を閉める彼に、またごまかすみたいな質問をしてしまう。
「……これは、通り雨?」
「ってか、ゲリラ豪雨ですよ。島にはないんですか?」
 新聞で見たことある言葉だ、と思った。それでも返事はできなかった。
「でも予報だとまあ、このまま台風来ちゃうと思うんですけどね。ときこさん、別にホテルとか取ってないですよね。うちにいるといいですよ、母さんもおじさんも、もうそろそろ帰って――」
 と、電話が鳴る。彼は骨ばった手で、銀色のプラスチックできている、軽そうな受話器を持ち上げる。
「いえ、すみません。父は今外出してて。……え? あ、いえ、はい。伝えときます」
 受話器を置かないうちに、彼はすこし気まずそうに言う。
「ときこさん、大変。橋のたもと、管理者の人から電話。島の橋が落ちたって」
「えっ?」
「台風のせいだよ。ちょっと前のも強かったし、今回のも十年に一度の、強い台風らしいから」
 ごうごうと家を揺らす雨風が、彼の言葉を肯定していた。
「ねえ、ときこさん、どうすんの。ときこさんは……それでも島に戻るの」
 ごうごう、ごうごう。
「あの女だけの島に」
 声変わりしたばかりの声色は、言う。
「あのなんの意味もない島に?」

 みどり。めぐ。あおい。お姉ちゃん。お母さん。おばちゃん。お医者さん。海ではしゃぐ娘たち。黄色い声を枯らす、あの娘たち。声の出し方を忘れた老婆。島のあらゆる、たくさんの人。
 緑色の山が島と空の境目だった。空は広かった。
 いつか男と女がいた。良い人が多くて、時おり悪い人がいた。いつか女だけになった。良い人が多くて、時おり悪い人がいた。変わらなかった。それでもそこで、たしかに生きている人たちがいるのだ。

「戻るんじゃない、帰るの」
 はっきりと、雨音でかき消されないように言い切った。 
「でも帰るだけじゃない。みんなと話し合うの。島はいつだってそうしてきた。それでもだめなら、私だけが島を出て、どこかへ行くよ。土地はどこにだってある」
 私はたしかに、島で生まれ育った人間だった。ねえ、と漏らした声が、すがるみたいに響いたのが嫌だった。
「たとえ少なくても島が救いになってる人がいるのに、あなたはどうして何も知らないその人たちを否定できるの」
 そう言って、ようやく気付けた。私が今しゃべってるのは自分のためでも、島のためではない、あおいのためだったのだ。あおいのような、島に救いを求めてやってきた人々のためだ。
「でも」
 と私は言い足す。
「でも?」
 ふん、と彼は鼻を鳴らす。
「あなたのような人が救いになる島の人も、きっといる。それは、わかってるの。土地と同じぐらい、いろんな人がいるから」
 みどり。みどり。息苦しげに島で生きるみどり。やっぱり私ではない、みどり自身がここにいるべきだったのだ、と思えた。今すぐ島に戻ってそれを言いたかった。みどりに会いたかった。なのに、会えなかった。
「変なの。……まあいいや。どうせ橋が戻るか船が出せるまで、ここにいるんでしょ。島の話、聞かせてよ」
 いいよ、と私は言う。彼の話が聞きたかった。
 そしてみどりの話をするのに、時間はじゅうぶんあった。

 このままではいられないのだ。島も、私も、みどりも、何もかも。
 それでもこのままでい続けるのなら、たしかにその覚悟を持って、耐えねばいけない。
 今がそのときだった。
 きっと、それだけだった。