秋の蝉と箱根駅伝

第32期(2017年4月-5月)

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今回は「秋の蝉」について、
エッセイを書こうとしていた。
が、季節感もなく自由すぎる。
いかがなものかと悩んでいたところ、
雷が鳴った。春の雷である。
飛行機が墜落してきたかのような
あまりにも大きな音だった。

春に大きな音の雷がするなんて、
どこか雰囲気のある呼称があるに違いないと思う。

「春 雷」

と、検索してみた。

結果は
「春雷・春に鳴る雷のこと」

結局、それを見て、
僕は「秋の蝉」について書き始めた。

夏と言えば、蝉が騒がしく鳴いている姿が思い浮かぶ。
ただでさえ騒がしい音が、より大きく聞こえてくるとき、
我が家では洗濯物に蝉がとまっていたりする。

雷よりも大きく感じるような鳴き声にイライラして、
テキトーにTシャツをはたくと、ジジっと音を立てて
どこかへ飛んでいく。もう来ないかなと思っていると、
遠くで聞こえてくる蝉の鳴き声が
さっきのアイツのような気がして結局イライラしてしまう。

あの騒がしい蝉はすべてオスらしい。
成虫になってから一週間ほど鳴き続け、伴侶となるメスを探すという。
夏の終わりに近づくと、その声も少なくなってくる。

うまいこと相手を見つけたのか、それとも死んでしまったのか、
どちらなのかは分からない。
だけど、明らかにその数が減っていく。
鳴き声の厚みが薄くなっていく。
どうしてかは分からないけれど、僕がそれに気づくとき
季節は夏ではない。秋なのだ。

夏に鳴いていた蝉の声にはあれだけイライラしていたのに、
秋に鳴いている蝉の声は、どうしてだろう、耳ざわりがいい。

少し気温が落ちているから、音の響きが違うのだとか、
他に鳴いている蝉がいないから、聞こえ方が違うのだとか、
僕は、そういう考え方は好きではない。
そんなことは自分で思いついていながら、恥ずかしくなる。

秋の蝉の声はさみしそうな声なのだ。
他の競争相手がいないから張り合いがない。
しかし、残念ながらライバルがいないことはチャンスではない。
射止める相手も、どこにもいないのだ。
地上に出遅れて、置き去りにされて、それでも諦めずに、無駄なのに
鳴き続ける声が、さみしそうに響いている。泣き声が聞こえている。
地上に出たからには、鳴かないわけにはいけない。
だから仕方なく鳴いている秋の蝉。
こんなにも虚しい存在はいないだろう。
耳ざわりがいいのは、そんな理由ではないだろうか。
僕はそんな風に思っている。

だけども、当事者にはたまったもんじゃないだろう。
秋の蝉は、僕の耳ざわりのために鳴いているわけではない。
彼らは必死に戦っているはずだ。
負けるとわかっているスポーツ選手が走り続けるように戦っている。

季節感のつながりがどんどんとなくなっていくけれど、
箱根駅伝を思い出した。
箱根駅伝のキーワードといえば、「花の2区」、「山の5区」
そして、「繰り上げスタート」だろう。

トップから20分以上の差がつくと、
強制的にスタートしなければいけないルールがドラマを呼ぶ。
選手たちは、チームの絆の証である襷を繋ごうと必死に走る。

それでも、毎年必ず襷を繋げないチームが表れる。
ギリギリ繋げないのかもしれないし、早い段階で難しいことがわかるかもしれない。
どちらにしても、無理だとわかっているのに彼らは最後まで走り続ける。
仲間がもう走り去ってしまった、消え去ってしまった
あの中継所を目指して、走り続ける。

一番輝かしいのは先頭を堂々と走る選手であることには間違いない。
蝉だって、夏のうちに精一杯鳴いて、子孫を残すことが一番だ。
もし、自分がその場に立つならば、一番輝かしい場所を選ぶだろう。
置き去りにされた場所に立たされたならば、悔しくて、涙が止まらなくなるだろう。

だけど、その姿を見ている人は、その鳴き声に耳を澄ませている人は、
どうしてだろう、感動せずにはいられないのだ。
心を動かされてしまうのだ。

誰もが目指さないような結果であっても、一生懸命走る姿は
一生懸命闘う姿は、一生懸命生き続ける姿は、必ず誰かの心を動かす。

その誰かは、
いつも近くで励ましてくれた人かもしれないし、
自分が予想もしなかった人かもしれないし、
まったく知らない人なのかもしれない。

そうやって僕たちは一生懸命生きているのかもしれない。