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2F/当番ノート

偶然か、必然か

第48期

今日は少し、音楽の細かい話は忘れて、私がインドで体験した不思議な出来事を共有したいと思う。
インドという国は、土と埃と、人びとの汗と熱気と、動物の糞尿と、あちこちで発せられる大小の音と、さまざまな食べ物のにおいと・・こうした生身の、非常に現世的なものがごっちゃになった世界である。
他方で、至極平凡な清掃人やリクシャーの運転手なんかが急にぽろっと、心に沁みる一言を発したり、奇跡としか呼べないような信じられないことが起こったりする。聖なる世界、奇妙な世界が背後に広がっている。
普通であればただの「偶然」と片付けてしまうようなことでも、ここでは何か大きな力のようなものを感じて、むしろそうなることは「必然」だったのではという気さえしてしまうのだ。

現在の歌の先生との出会いについては第1回に書いた。先生が一人暮らしをする西インドの大都市ムンバイーの家で、留学の最後の数か月間共同生活をしたこと、留学のはじめの2年間は博士論文の調査のために「ガヤー」というヒンドゥーの聖地に住んでいたことも。
今回の話は、この留学生活の最初と最後が、信じられないような関係性によってつながった奇跡のお話である。

ムンバイーの家であるとき、先生が生徒から送られてきた録音を聞いていた。先生の仕草から、私にも聞かせたいのではないかと思い一緒になって聞いた。
曲は、先生がはじめに教えるラーグ・ヤマンのEri Ali Piya Binだったけれど、あまりにも素敵な歌声だったので古い生徒かと聞いた。
すると、習い始めたばかりの小さな女の子だというのだ。驚くとともに、会ったこともないその女の子に嫉妬した。
彼女は東インドのベンガル地方のSiliguriという街に住んでいる。遠いので、レッスンに通ってくることはできない。先生と女の子は直接会ったこともなかった。なんでも、とても貧しい家の子なのだそうだ。先生は、諸事情でレッスン料を払うことができない才能ある子どもに無料でレッスンを提供しているが、この女の子もその一人だった。
私が先生の家にいるあいだ、女の子から何度も電話がかかってきているのを見ていた。先生が忙しくて彼女のメッセージに返事できないでいると、怒ったりいじけたりして電話をかけてくるのだ。母親よると、彼女には少し発達障害があるとのことだった。
この頃には女の子の名前が「ラートリ」であるということを知る。「ラートリ(夜)」なんて変わった名前をつける親もいるものだと思っていた。

5年間の留学生活の最後の一週間は、怒涛だった。
10月19日にムンバイーで先生の大きなコンサートに同行して、21日に先生の家を出た。昼のフライトで、3年以上住んだイラーハーバードに戻って、大学から博士号を受け取り、最低限の人に挨拶をし、日本に持ち帰る荷物をまとめ、入りきらなかった本を郵便局から送り、22日の夜にデリー行きの列車に乗った。23日の朝にデリーに着いて、日本に持っていく荷物を先生の実家に置かせてもらい、その日の夕方に先生のお母さんを連れてフライトで北東部アッサム州の州都グワハティへ。先生はムンバイーから来た。24日にグワハティでコンサート、25日の朝のフライトで先生・お母さん・私の3人でデリーに戻り、先生のお宅でディーパーワリーという大きなお祭りを祝い、27日の夜のフライトで帰国。
19日の大きなコンサートは、先生の喉の調子が悪くて、私もサポートとしてステージにあがるかもしれない!となって本当に大変だった。All India Radioという日本のNHKのような大きな国営テレビ局が主催するもので、インド国内24か所の放送局で同時開催、すべて録音されテレビ放送される。自信は全くなかった。結局、主催者側の都合で私はステージにあがれなかった。
苦しそうなところもあったけれど、先生は1時間半のコンサートをなんとかやりきった。心配と感動で私は客席でずっと泣いていた。
21日、先生の家から引きあげるときにも泣いたし、22日、イラーハーバードの大家さんとお別れするときにも泣いた。この時点でもう、精神状態はふつうではなかった。

24日のグワハティでのコンサートは、私にとって帰国前最後の先生のコンサートだった。
Siliguriの女の子、ラートリが両親と一緒にグワハティに来ることになっていた。午前中には有名な女神の寺院に参拝に行くし、リハーサルやサウンドチェックが何時になるかわからず、先生は彼女に明確な予定をなかなか伝えられない状況だった。先生にはじめて会えるという気持ちの高ぶりもあったのだろう、ラートリからは何度も電話がかかってきていた。それに応対するのは私の仕事だった。
23日の夜、会場内の宿泊地に着いて食事をしていると、ラートリから先生に電話。私が出て、翌日の予定はまだ決定してないと伝える。しばらくしてもう一度電話がかかってきた。ラートリのお母さんだった。
せっかく来たのに、予定もわからないし、電話に出るのは別の人だし、ラートリは先生に会えないんじゃないかと泣いているというのだ。先生と話せないかとお母さんが真剣に頼むので、先生にかわる。絶対に会えるからとお母さんとラートリとも話して説得していた。
翌日。12時ごろにラートリと両親が宿舎にやってきた。先生・お母さん・私の滞在していた部屋に共演のタブラーとハルモニウムの人を呼んでリハーサル中だった。私もステージにあがる予定だったので少しだけ一緒にやった。

彼らが入ってきたとき、私は、ラートリの両親をどこかで見たことがあるような気がした。でも、それがいつどこでだったか、全く想像がつかなかった。特にお父さんのほうはインドでよくある顔だよななんて思いながら、気に留めないでいた。
リハーサルが終わり、ラートリのお父さんが一階のタブラー奏者の部屋に楽器を運ぶのを手伝った。彼はタブラーの人となにやら話し込んでいた。
そうこうしているうちに会場でのサウンドチェックの時間となり、出る準備をして部屋に鍵をかけた。
するとラートリのお父さんが、リハーサルをしていた上の部屋に靴を置きっぱなしだ!と言った。部屋の鍵は私が持っていたので、一緒に二階にあがる。急いで靴を履き、出てきたお父さんを見て、私の脳のなかで何かが破裂した。

「私、あなたに前に会ったことがある。5年前、ガヤーで。」

そう、ラートリと両親は、ガヤーにきた巡礼者だったのだ。
ガヤーは、先祖供養の儀礼をするのに最も良い聖地と考えられていて、インド中から巡礼者がやってくる。
調査していた2年弱、ガヤーでは多くの巡礼者に会い、儀礼を観察させてもらったりインタビューをしたりしたが、そうした巡礼者と継続的に関係をもつことはほとんどなかった。
ガヤーに1、2週間滞在して毎日違う寺院や山、池などに行って儀礼をしてまわる人たちもいて、ずっと同行させてもらったりした人とは連絡先を交換したこともあったけれど、ラートリたちと過ごしたのはほんの2時間ほど。
彼らはファルグ川、ヴィシュヌパッド寺院、アクシャヤヴァタ(バンヤン樹)というガヤーの巡礼者が絶対にまわらなければならない3か所で、集団で簡単な儀礼をしただけだった。
それでも、この家族のことはとても印象に残っていた。真面目で純粋なお父さん。亡くなった父のことを尊敬しており、私に写真を見せながら話してくれた。供養の儀礼の最中には涙を流していた。まだ小さかったラートリ。両親が儀礼をしているあいだ、子ヤギと戯れていた写真が残っている。人懐っこくて、「私にも撮らせてよー」とビデオ撮影の邪魔をされたなあ。
このときには、連絡先を交換することもなかったし、まさか再会することがあるなんて、夢にも思わなかった。ラートリはずいぶんと大きくなって、あの子ヤギと遊んでいた女児の面影はなくなっていた。

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調査中につけていた日記や写真を検索して分かったが、彼らに出会ったのは2013年9月だった。つまり留学前、博士論文のための調査地を決める際、予備調査をしにガヤーに3週間ほど滞在したときのことだった。
もともとガヤーにはあまり良い印象なかった。田舎だし、聖地としての魅力もあまり感じなかったし、貪欲な聖地の聖職者たちと相対するのも怖かった。しかし、ラートリの家族のような良い巡礼者たちと出会うことよって、私はここでやっていけるかもしれないとガヤーで長期調査をする決心がついたのだ。
「ガヤーで会った外国人女性はあなただったのか!娘に、ザクロをくれたよね。」
ラートリの両親もまた、ガヤーにいた外国人のことを覚えていた。当時の私は見るからに「外国人」で、ヒンディー語もほとんど話せなかった。5年以上インドに住み、馴染んでしまった私をあの外国人と認知することはできなかったようだが、ラートリに私がザクロをあげたなんていう、私も全く記憶にないことまで覚えていてくれた。ラートリのお母さんは、私の名前まで覚えていた。

24日のコンサートでもまた、私はステージに立てなかった。
ラートリが出ることになったから。
もちろん先生は、私に意見を聞いた。私は、ラートリが出た方がコンサートとして良いと思ったから、ラートリが出ることに賛成した。
私は客席で音量、歌と楽器のバランスの調整をすることになった。
7月から先生の部屋に住み、コンサートにもいくつか同行してきて、先生は私のことを信頼してくれていると感じていた。頼まれる仕事も増えたし、さまざまなことを相談されたり、スケジュールの管理までやるようになっていた。
先生と一緒にステージにあがった経験はこれまで3回。習い始めて2か月くらいたったとき、立て続けに。そのときには歌わず、後ろでターンプーラーを弾いただけ。いや、もう一度ある。5月半ばのこと(博論提出目前のめちゃくちゃ切羽詰まってた時のこと!)。そのときは短い曲を5、6曲やるようなコンサートで、電子ターンプーラーを曲ごとに調整する重要な役目だった。そのときに「この子は使える」と思われたのかもしれない。以降、裏方にまわることが多くなっていった。
ステージに立ちたいのであれば、歌の技術を磨くのはもちろんだけれど、もっと自己主張すべきなんだと思う。先生と生徒という一定の距離感を保つことも必要かもしれない。
でも、先生の生徒であるとともに、理解者であり、マネージャーでもあるような位置についてしまってからは、先生のコンサートが最高の状態になるように、自分のできることをするように・させられるようになった。

ラートリは、ステージにあがれるような衣装をもっていなかった。
「なんとかして」と先生は私にラートリを任せた。
ラートリの両親が、滞在しているホテルに服があるので持ってくると言った。両親がいなくなったあとラートリは、ホテルにもないよ、買いに行ったんだ、と私に言った。
彼らが貧しいことはわかっていた。だから、2時間後くらいに戻ってきた両親が「私たちの手元にはこれしかない。トモカ、なんとか頼む」と部屋着のようなズボンを私に手渡したときにもそう驚かなかった。
両親がもってきた上着を着せ、それに合うズボンとショールを私の服の中から選んで着せた。幸運なことに、私がムンバイーの先生の家から出るときに荷物に入りきらなかった服を、先生が持ってきてくれていたので選択肢があったのだ。
先生のOKをもらう。
先生は自分の部屋で夕方のコンサートのプログラムを考えていた。ラートリと私はもう一つの部屋で待機。ラートリは、私が部屋から出たときに隠れて脅かしてきたり、ラップトップを勝手に触ったりして私を怒らせた。「学校にはたまにしか行かない」なんて言うものだから、ちゃんと勉強しなよと諭したりもした。
でも、音楽の話になると目つきが変わった。本番前の先生の邪魔をしないような仕方で、ステージ上のことについてもっともな質問を先生にしたときには驚いた。

本番。
やっぱり私は、先生の歌を聞きながら泣いてしまった。ラートリ家族との再会があって、5年間の留学生活のさまざまな局面を思い出しながら、達成感と、寂しさと、そして、堂々と先生の後ろで歌う小さなラートリに対する嫉妬も、正直にいうとあったのかもしれない。
すべてのプログラムが終わったあと、ラートリのお母さんが「いつ日本に帰るの?」と聞いてきて、皆の前で号泣してしまった。理由は、説明できなかった。

私が熱心に自分の研究のはなしをインド人にすると、あなたの前世はインド人、ヒンドゥー教徒だったに違いないとこれまで、何度も言われた。
前世のことは、というか前世なんてものが本当にあるのかすらわからないけれど、私がインドの宗教に興味を持ち、勉強をはじめ、インドに留学してまで研究にのめりこみ、そして、インド音楽に出会い、先生に出会ったこと。これらはすべて私が自分で決めてきたことではあるけれど、それにしても自然で、本当は、事前に決まっていたことがただ目の前で起きているだけなのかもしれない。心の声に従い、状況に身を任せていたらここまでたどり着いた。
インドにいると、うまくいかないときは何をしてもうまくいかない。反対に、びっくりするくらい簡単に、扉が開くこともある。
私や私が関わる人たちの身に何が起こるのか。すべては偶然かもしれない。でも、必然だったのかもしれない。
私はこれからも、インドと、インド音楽とかかわり続けていく。努力は惜しまない。道は自然と開けていくのだから。

虫賀 幹華

虫賀 幹華

ヒンドゥー教史を専門とする研究者。5年間のインド留学を終え、2019年10月末に帰国。留学中にインドの古典音楽に興味をもち、現在、グワーリヤル流派の女性声楽家ミーター・パンディットに師事。ライフワークである音楽を研究テーマのひとつにしようと画策中。

Reviewed by
松渕さいこ

パウロ・コエーリョの『アルケミスト』を初めて読んだとき、主人公の羊飼いの少年サンチャゴが「前兆」を受け取りながら運命に近づいていくさまにとても感動した。少しだけ身に覚えのある考え方が神秘的に示されているこの本に、随分と勇気をもらったのだ。

思い返せばここまで劇的ではないけれど、人生に不思議なことが起きるときにはだいたい、それが起きるまでに自分のなかで言語化できない予感がいくつかあった気がした。この本に出会って、その飛び石のようにばら撒かれた予感を強く意識するようになっていった。過信もしないけれど、見落とさないこと。期待をし過ぎずに、思い出すこと。もしそれができたら自分の考えもしないような素敵なことが先に待っているんじゃないかと思っている節が私にはある。

コラムを通じて知る幹華さんの5年間のインド生活は出会いや出来事、研究のなかで打たれた細やかな「点」で溢れているように感じる。印象的な出来事を振り返ってみたときに、それらが星座を結ぶように躊躇いのない道筋になっていたとして。それはとてもよくできた「偶然」でしかない?どうだろう。

あるいは、星座を結ぶときには溢れてしまうような小さな点たちは無関係の通過点に過ぎないのだろうか。でもその飛び石がなければもう1歩先の大きな飛び石には足を掛けられなかったかもしれない。どれも偶然と呼び捨てるには愛おしすぎる。

幹華さんが導かれるように身を投じた音楽を通じて、インドでのはじまりに打った点と5年の集大成で打った点が予期しようもない形で線となり環を描く。先生とステージに上がった少女ラートリの歌のなかに、幹華さんがいたのだと思う。「偶然」をかき集めて眺めるのが好きな私は、読み終わったあとにそう思った。

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