弱者の品格 ー叫び方編ー

第34期(2017年8月-9月)

築29年のたかだまなみです。そろそろ水回りをリフォームしたいお年頃。
アパートメントで過ごすひと夏は、人生の「岐路」を思い出して過ごしています。
あなたも一緒にどうですか?
 
私という部屋は仕切りがなくって全部見えるし、声だって筒抜けです。
すみっこには、やりかけて夢に終わった趣味の道具や、何が楽しいか全く不明であろうガラクタが積んであります。
でも、あなたが来て、一緒のじかんを過ごせるのを楽しみにしています。
きちんとろ過した軟水に、たっぷりの氷とレモン、それにミントを添えたドリンクを用意して、あなたが来るのを待っています。夏ですから。
 
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前回は、岐路は決断とともに有り、と言うことで若い頃にした決断について思い出してみました。
今回の「岐路」は、ある出来事でキャラ変更を迫られた時に感じたことをお話ししていきます。
意識高い系キラキラ女子が、真逆の意識低い系に。
どうしてこうなったのか面白がって見てください。
 
ピンポンは要りません。どうぞご自由に入ってください。
気が乗らなければ、いつでも(でも静かに)出て行ってください。
  
 
<どうすれば助かるか>

生きていれば、一度くらいはとんでもない目に遭ったりする。
もしかして一生に一度も、最難な災難に苛まれることがない人もいるかもしれないし、
普通の人が体験しないことを13回、味わってしまう人もいるだろう。
いろんな人がいるけれど、私が言いたいのは、
今は「普通」のあなたも、明日には普通の人じゃなくなるかもってことだ。

誰かに助けを求めるとき、
自分は降参だぜ、もう一歩も前へ進めないぜ、と叫ぶとき。

叫び方にも色々ある。
「私はこんなに可哀想なんです!助けてください!」とか
「私はこんな目に遭って辛い思いをしたんです。」とか
「もといた場所に戻りたいんです。」とか。

底辺にいると、同じように上(というのは幻想だけど)から転落してきた人たちと会話する。
すると、なんでかわからないけれど、怒りが湧いてくることがある。
不慮の事故、自分のせいではないのに起きた事件、不運な状況。

本来ならば同志として、同情するところだろう。
でも私は「お前、それじゃぁ助からないよ。」と言いたくなって、それ以上話すことができない。
なんでだろう。
「あなた、地球は初めて?」と聞きたいくらい、彼らは何にもわかっていない。(と思ってしまう。)

「私ってこうで……。」
「僕はこんなことがあって……。」
彼らのじかんはそこから止まっている。
そこに怒りを感じるのだとしたら、私はどん底にいるにもかかわらず、強者の理論棒を振り回しているのだろうか。
この怒りを丁寧に分析しなくちゃいけない。

後になってその人たちは、好きで上から転落してきたのかもしれないと、感じた。
いや、失礼だ。
その人たちは、自分の叫びが一番通るところをめがけて、移動して来るのだと思った。
自分の声が響く場所はいろいろだ。
だから心地の良い場所へ移住して来たんだ。

それで、私もこの場所に来たのかもしれない。生存戦略として。
 
 
<そもそも助かりたいのか>
  
残念なことに悪いことは一つずつ……やって来ない。
おまとめ割だって効かない。
私は数年前、いろいろなことがいっぺんに起こって死にかけた。

友人に助けてもらい、家賃14万5千円の1DKから家賃1万5千円のシェアハウスにうつった。
飼い猫2匹は実家で面倒を見てもらうことにした。
家具や蒐集したキッチン・ツールは何百万かのゴミになった。
年間100万近く買いためてパンパンになった4畳のウォークイン・クローゼットもほぼ空に。
貴金属は盗まれたので、祖母の形見の真珠も、ダイヤモンドもアクアマリンも全部なくなった。

金なんてどうでも良い、と見栄っ張りな私が思うほど、すっからかんになった。
むしろ清々しかった。
私はもっとも大事なものを失ってしまったし、相応の痛みと罰を受けることになった。

小学校の時のプールを思い出す。
梅雨が明けてすぐのプールは、冷たくてクチビルが紫に変色した。
でも水に慣れてしまえば、外の空気の方が冷たく感じる。
それと同じで、
不幸にも慣れて、幸福が痛い。
幸福がヒリヒリする。

だから、助かりたいと思わなくなってしまうのだ。
ここでいいや。
それなりに楽しいし。仲間もいる。
助かりたい、どこかへ行きたいという気持ちが奪われることこそ、底にいることのリスクなのだ。
そして私が転落した人に感じる怒りは、暗い思い出に住み続けていることへの絶望だった。
どうか、頑張って這い上がって見せてくれ。
私は助かりたいんだよ。
 
 
<弱者の正しい叫び方>

働けなかったとき、生活保護という言葉が浮かんだ。
調べたら、生活保護を受けるのは手間で難しいらしい。
ヤァねえ。
おうちにグランドピアノがあるって言うのに生活保護になるのかしら。
四年制大学を卒業してもカリスマニートとして君臨するのかしら。(結局、今まで国のお世話にならずに済んでいるが。)
プライドがパリンと割れる音は意外と、気持ちが良かった。

自分が今、弱い立場にいることを伝えるのはなんと難しいことか。
「それってあなたの甘えじゃない?」
「悪いのはお前だから仕方ないよな?」
「なんでもっと早くやるべきことをしなかった?」

まぁ、こんな感じで一般人に私がなぜ底に転落したのか説明するのは、根気のいる作業だ。
だからね。
弱者は一般人の納得する「弱者らしい」格好をしなくてはいけないと思った。
手元に残った服は昔買ったものだが、お嬢さんスタイルだったので捨てた。
全部ユニクロか、もらい物にした。
「私はできない」を口癖にした。
意識の低さを自慢にした。
そうすると、多少自分が歪むのだが、周りが納得して助けてくれた。(そして私は助かった。)

生きるために自分を歪めることを、適応とか進化と言っても良いし、
生きづらさと呼んでも良い。
自分らしくいられない社会が悪い!と言っても良い。

でも、別に何をしようが自分っていうのは確かに私の中で生きていて、殺せない。
それで良いじゃないか。
誰かにわかってもらう必要があるだろうか。(わかってもらえたら、そりゃあ嬉しいけど。)
わかってくれる人たちの中で、平和に生きられたらそれも素敵だけど、
結局マスの、一般の、普通の人が作る概念が私たちの生きる「社会のフィールド」であるから、
私は弱い者として、
マスに媚び、頭を低くし、ニコニコした顔で対応して裏でわるぐちを吐き、働きアリとなって生きようと思う。

弱者なりの誇りと生き方を貫いて、今日を楽しんでいけばいい。
だから、あんまり誰かにどうこうなって欲しいとか、社会が変わることに興味があるわけではない。
普段、多様性とか性のあり方を問う活動をしているのだが、
「こんな世の中になったら良いよね!」というよりは、
強いメッセージを発信するとどうなるのか、その化学反応が見たい、という好奇心の方が強い。

弱い者の生き方は、普通の人とは違う。
それを区別だ差別だ言うのはご自由だ。
あなたにはあなたのアパートメントがある。
現実問題、私が私として生きるには、ちょっとめんどくさいが方法を考えなくちゃいけない。

不幸に生きるつもりは、これっぽっちもない。
卑下もしていない。
「自分をそんな風に思わなくったって良いじゃないか」と言う話でもない。
人には調子の良い時もあるし、悪い時もある。
悪い時にはどう考えたら楽か、と言う話をしているつもりだ。

私が楽して生きるために、多少目をつぶり、諦め、回りくどい方法で「一般」の方々にメッセージを発信する。
私は弱者の品格にポリシーを書き加えながら生きよう。
 
 
こうして私は今から730日くらい前に、キャラ変更をして何度目かの岐路を左に進んだのでした。