青春の出会い 再会

第37期(2018年2月-3月)

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(いつか伊勢参りに行ったときの写真です)

本稿では、私にとっての青春を共にした人、さとしさんとの再会について書いていく。

前稿の最後に記したように、私はとかく怖かった。
ここ数年間、たびたび去来していた「大切な’何か’を失ったのではないか」という
感覚への答えを、さとしさんは持っていると思っていたからだ。

私は、さとしさんからどう見えるのだろう。

再会を経て、私は、人と人との関わりの奥深さに気付くこととなった。

————

再会の当日、お互いに仕事であったことから、22時に地元の駅で集合となった。
私はと言うと、前日から気もそぞろで過ごし、当日に至っては「何を話そうか」と、メモまで書き留めていた。
しかし、その行為が自分を落ち着けることなんて期待していなかったし、無駄な行為だということもわかっていた。

ふと考えると、私はいつも’こういう時’に、無駄な行動で時間を食べてしまう癖がある。
無駄に走ってみたり、いつもは読まない本を読んでみたり、聞かないラジオに耳を傾けたり。

私がそのような行動を起こしてしまう’こういう時’について考えてみると、答えはすぐに出てきた。
私は、’恐れている時’が間近に迫っている時に、無駄な行動を起こすのだ。

来てほしくないけど、いつか来るなら、すぐに来てほしい。
待ってしまっているけれど、待ち詫びているわけではない。
恐れている時に対して、私はそんな気持ちだった。

その気持ちに気付くと、よくあることじゃないかと落ち着くことが出来たが、それでも、
「さとしさんと会う」という事実は変わらない。私は、どう判断されてしまうのか、
という考えに徹してしまい、さとしさんとの再会自体を楽しめなさそうな自分が嫌だと感じていた。

駅の改札前でさとしさんと見つけると、私は極めて普通を装って話しかけた。
さとしさんは、「待ってたよ」と噛み締めるように言ってくれた。
それはもちろん、この改札で待っていた時間ではなく、会っていなかった期間に向けてかけてくれた言葉だろう。

お店は、古着屋~大学時代に二人でよく行っていたホルモン屋さんが地元の駅近くにも出来ていたのでそこになった。
乾杯のビールが来るまで、お互いの簡単な近況を伝え合うが、私は私自身がうまく表情を取れていないことを気にしてしまう。

微妙な心境からくる必要のない緊張は、お酒が入っても続いていたが、私にとっては思わぬ形で一気に解けることとなる。

お互いの知らない空白期間を足早に埋めるような、自分の歴史の年表を見せ合って簡略的に話しているような感覚に、
私はふと「もったいないな」と感じた。

それは、さとしさんがその時その瞬間、何をどう感じて、どういう考えの経路を辿り、何を軸にして判断を下したのか、
というのを細かく聞きたいのに、結果ばかりを伝えてもらう話となっていたからだ。
またそれは逆も然りで、たくさんの迷いと決断の中から、今こうしている、という結果ばかりを伝えているが、
もっと色々考えてたんだ、聞いてほしいな、と思う自分もいたのだ。

しかし、そんなに急ぎたくないのに、伝えずには居られない、といったもどかしい状態が続いてしまっていた。

そんな折、さとしさんが突然、

「なんか、あれだね。スターウォーズを一気見してる感じがもったいないね。」

と逸る気持ちを抑えるように、笑顔で言った。

順番とか内容とか色々見方があったりするのにね、と付け足して伝えてくれたその感覚は、
私のその時の感覚にぴったりと当てはまって、さとしさんも同じ感覚で居てくれたことに安堵するとともに、
昔もよくこういう感覚を共有したな、と頭ではなく、心が感覚を思い出してくれた。

そう、さとしさんとの会話は、いつも重要なポイントが繋がっている’この感覚’があった。
それが有難くて、むず痒くて、嬉しかったのを思い出した。

おかげで、以降は昔に戻った感覚で、でも今の私自身で、色んな話をすることができた。

そこからの会話は、「多くを語らずも分かり合う」ということを肌で感じていた。

さとしさんの言うことは、その時の気持ちまでも伝わってきたし、私が話すと、
私が言葉に出来ていない部分まで例えて話してくれる。
お酒が進むのは当然で、同時に、感情がより深まっていくのも必然だった。

私が話す番になった。
会えていなかった空白の期間の内、私の中で大きかった出来事を、より詳細に語った。
話す言葉に感情が乗っていることを感じていた。

さとしさんは聞き入ってくれた最後に、こう言ってくれた。

「やっぱりこみちゃんだね、前から大事な部分は変わってないしブレてないよ。こみちゃんっぽいよ。」

途端、私の目には涙が溜まってしまう。
さとしさんは、私が一番怖がっていたことにするりと触れた上で、認めてくれたのだ。
「何かを失ってしまった」と感じる心に、救いの手が伸びたのだ。
きっと、さとしさんは分かっていて、私の状況も汲んで、ちゃんと言葉にしてくれたのだと思う。

しかし、更に私は驚くことになった。
それは私に救いの手を差し伸べた直後に、さとしさんが話してくれたことだった。

「今でもね、こみちゃんがしてくれた’水’の話、覚えてるし、よく人に話すんだよ。」

たった一滴のこの言葉が、心にゆっくりを波紋を作って広がっていく感覚が訪れた。
私は随分と長い間、その話を忘れていたのだ―――

—-
水の話とは、私は好きな話で、かつ、とても大切にしていた話であった。

何の本だったか、俳優の窪塚洋介氏と科学者が行った実験の話だ。
まるで中学校の理科室で行われたような実験は、信憑性とかは置いておいて、とても感心させられた話であった。

ビーカーに入れた水に対して言葉をかけると、分子同士が音の振動によってランダムに結合する。

例えば、「嫌い」とか、「消えろ」などのマイナスイメージの言葉を水にかけると、
結合した分子はとても歪な形を形成する。

対して、「ありがとう」とか、「愛している」などのプラスイメージの言葉を水にかけると、
とても綺麗な形を形成する、という話だ。
—-

私は本で水の話を知ってからは、自分の体に流れる水は、綺麗な形が流れていてほしいと願い、
そうするためにはプラスイメージの言葉をもらうことが大事であると確信し、
そのために、まずは私からプラスイメージの言葉を使って、周りの人に悪影響を与えないように、と心がけていた。

私は、さとしさんからこの話を逆輸入するまで、すっかりと忘れてしまっていたのだ。
意識して人と会話したのは、もう覚えていないくらい前の話だった。

水の話をきっかけに、私の中には大切にしていた想いが芋づる式に溢れてきていた。

私が無くした大切な想いは、再会を経て大切な人から返ってきた。
それに気付いた時にはまた嬉しくて、私の涙が溜まってしまっていた。

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「全然時間足りなかったから、また近いうちに飲もうね」と解散に至った再会は、
私にとって「大切な想いを思い出させてくれる」ものとなった。

不思議な話だと思う。
私は、大切な’何か’を無くしてしまった自分を見せるのが怖くて、会うことができなくなっていた。
踏み出して再会してみると、大切な’何か’の一つが返ってきたのだ。

もし、この再会がなかったら、私は一生この感覚を取り戻せていなかったかもしれないと思うと、
再会を目の前に抱いていた恐怖など可愛いくらいの悪寒が背中を走る。

第4稿で鳥居さんとの再会を経て、私は以下のように書いた。

『出会い、それから再会というのは、とても色んなことを感じ、考え、学びとなる機会だと確信した。』

この記述は私の想いと反していないし、間違っていることを書いているわけではない。
しかし、また違うベクトルを持つ話にはなるが、ケースによっては、
‘再会しなかった自分が怖くなる’ほどの出会い・再会もあるのだ、ということを知ることができた。