第六回:リミテッドおでん

第42期(2018年12月-2019年1月)

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こんばんは。当番ノート42期のヨシモトモモエです。
毎週火曜は私のお部屋で、のんびりしていきませんか。

27歳・実家暮らし。
会社勤めを楽しくしながら、家業を手伝い、踊りなどもしています。「踊れる・食卓」では日々のくだらなくて、けどすこしくだるなぁ、と感じたことをゆるっと書いていきます。

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第六回:リミテッドおでん

「なんだ、リミテッドおでんか。つまり、お母さんはおでんの量を決めているんでしょう」
コンクルージョンファーストの方は、きっとそう勘づかれることと存じますが、事態はそうも簡潔に結論づけることが少し難しかった。母よ、なぜ、おでんは有限なのですか。

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手に限らず、風にあたる全ての肌が悴む季節、電車に長いこと揺られて帰宅すると、またしても遅い時間に台所の電気は点いている。がらがらと音がする我が家のオンボロの引き戸を引く。

「ただいま帰りました」
「ももちゃん、おかえりなさい」

我が家は小さい頃から「ただいま帰りました」という。
テレビアニメなどで、「ただいまーっ」とサラッと入る主人公に憧れて、「ただいまーっ」とやってみたら、玄関先で当時はまだ厳格だった祖父に「やり直し」を求められたことがある。祖父は今でこそまろやかだけれど、私はいまだに「ただいま帰りました」と言うようにしている。かっとして血圧があがられたら、こちらが困ったさんだ。母はそのあたりは、わりとおかまいなし。家に帰ると母はたいてい起きている。

誰かが起きている家はいい。そして、誰かが起きていなくても家はいい。
なんならいつか私は、誰かの寝息でごはんが食べられるぐらいに、人類としての進化を遂げたりしそうだと思っている。

台所のさしてお洒落でもなんでもない窓ガラスが結露ですこし曇っている。台所の引き戸を引くと、母がストーブをつけながら、うつらうつら、また誰かに手紙を書きながら寝ている。あぶないので母を起こそうとすると、ふと机にメモ書きがある。

「お母さん」
「ん」
「お母さん、また寝てるよ、ストーブ危ないよ」
「あら、ももちゃん」
「あらじゃなくて、ちゃんとお布団で寝てください」
「はい、寝ます。今日はおでんだから。おでんのパロディ」
「おでんのパロディ?」
「そう、パロディなのよ。おやすみ」
「はい、おやすみ」

「豚なし豚汁(第一話)」に留まらない。「おでんのパロディ」の登場だ。
なんなら、今週は「甘くない甘酒」というのも飲んだ。母の残したメモ書きを見る。

大根2
こんにゃく1
にんじん2
玉子1
つみれ2
はんぺん1
じゃがいも
もちきんちゃく1
昆布

これだけ見ると、私からするとパロディでもなく、まあまあおでんとしての必要条件は揃っているような気がしてしまう。パロディはどこからどこまでか。そう、説明すると、数が書いてあるものはそれが規定量で、何も書いていないものについては自由にお皿に取っていい。なにせ、多い時には10人の人員を抱える我が家では規定量はたいていのものに求められる。

大鍋に火をつける。ストーブの前に座って、大鍋から湯気がでるのを待つ。本当はお皿に必要な分を取って、電子レンジでチンをしてしまえばいいのだけれど、玉子もあることだし、昆布もあることだし、翌朝もっと染み込んでほしくて、あえて大鍋のまま温めてしまう。

「おっ」

ここからの食卓は私ひとり。
母は二階ですやすや寝ていることだろう。私は台所で好きな音楽をかけて、たいていは「ゆれる」という曲を流したりして、のんびり食べる。遅い時間だというのに、私はごはんをほんのすこしお茶碗に盛って、余っているお味噌汁をお椀によそって、お漬物まで探しだす。あとは柚子胡椒と辛子と。

大根はしみしみだ。母はしみしみの実を使っているのだと思う。ふうふう。今日もこんなにしみ込んでくれてありがとうと大根には礼を言いたいぐらいだ。だから大根2というのは、こちらとしてはありがたい。
こんにゃくは1。こんにゃくは、たいてい2はとれそうだったのに、先に帰った家族が食べてしまった結果1に落ち着いたのだと思う。
にんじんは2。あまり売れないがちである。でも、ちゃんと角を取ってくれている。甘い。
玉子は1。玉子は時々、半個の時もある。表面に色がついているかついていないかというしみ具合でも、うちの玉子はいい味だ。10人だから玉子が一気になくなってしまうから、それもそのはず1でしょうがない。誰かが調子に乗ってしまうと、私の分はない。
つみれは2。これも結構母はがんばってくれている。
はんぺんは1。はんぺんについては、歯の弱い祖母がひたすら狙っている。すこしとぼけていても、そこは間違いなく狙ってくるのが祖母だ。(祖母よ、気持ちはわかるがそこは年功序列とはいかない。あくまでフラットでいこうよ、とよく大人気なく諭してしまう。)
じゃがいもは無制限。じゃがいもは、おだしがしみると、ほろほろと分解されていく。そうして母数がずっと増えていく。
もち巾着はレアキャラで、たいていはお餅つき前後の消化の都合がある時、そして母の遊び心が発動した時だ。
昆布は、意外と盲点で皆が選ばないけれど私は一番好きなので無制限はありがたい。このまま皆、昆布の魅力に気づかないでいてくれていいのにとすら、数年前まで思っていた。27にもなって、私は底意地がよいとは言えない。

家庭内のおでんの規定量について、こんなふうに人さまの目に触れるところに詳しく書くなんて、自分でもすこし気は引けるけれど、こうして母がメモに残したことを忠実に守りながら、ひとりで食べるのは、結構おもしろい瞬間なのだ。もちろん、家族と同タイミングで食べられるのも好きだけれど、こうして一人でにやにやしながら、今日も例によって祖母がはんぺんを食べすぎたのではないかとか、母は今日は遊び心でもち巾着を作っているのではないかとか、もう寝ている家族のことを勝手に想像するのは、同居の楽しみ方としては趣がある(!)。これも平和すぎるのかしら。

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そして、この規定量について、私は案外守っているのだけれど、それはなぜかといえば「母が怖いから」とかそういうわけではない。
別に守らなくても、怒られるわけではないけれど、こうして母のメモ書きと自分が話しているように食べるので、この声のない会話を楽しむようなったのだ。限られたおでん。それはまた、自分以外の誰かの存在を感じさせてくれる。自分以外の誰かと共有しているということ。これは「数」によって、ルールというか、我が家の「緩慢な決まり」がある意味な気がする。

そういえば、すこし大人になって、最近新たな楽しみを見つけたのだけれど、外で食べるおでんはまたおもしろい。牛すじも入れていいんですね!きりたんぽも入れるんですか。ウインナー?都会的!なんて、私はまた浮かれた気持ちで食べ進む。コンビニおでんもおもしろい。コンビニさんによっては、うどんとかも入れられることを、親切な友人がお泊まり会で教えてくれて、私は感動した。珍しくたいへん酔っ払った日だったから、もうこれは大発見!というレベルで盛り上がってしまったし、その味を明確には思い出せないけれど、その胸の高鳴りだけは、酔っ払っていたのに覚えている。

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今年から、ある変化があった。それは、おでんの規定量について、規制緩和が起きたということだ。
もう母は、メモ書きを残さない。これは、大人の証なのかしら。自立的に、おでんを食べられるようになったね、ということなのかしら、と考えた。
いや。もしかすると母はただ眠いだけかもしれない。
それもいい。私の知らぬ間に、いい歳になってしまったのだから、たくさん寝てほしい。目覚めたら、おでんはまたおいしくなるものね。

(既にさみしくなってきているけれど、あとの二回につづく)