第八回:漬物というルーティーン

第42期(2018年12月-2019年1月)

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こんばんは。当番ノート42期のヨシモトモモエです。
毎週火曜は私のお部屋で、のんびりしていきませんか。

27歳・実家暮らし。
会社勤めを楽しくしながら、家業を手伝い、踊りなどもしています。「踊れる・食卓」では日々のくだらなくて、けどすこしくだるなぁ、と感じたことをゆるっと書いていきます。

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第八回:漬物というルーティーン

こうやって毎週アパートメントに、私が自由気ままに書いた文章を載せてもらうのも、あと二回になった。もともとの知り合いだけでなくって、インターネットという大きな川のような場所でどんぶらことこの記事に流れ着いて、殊勝なことにお読みくださった皆さんには方角がわからないけれど頭を下げたい気持ちでいっぱいだ。こうやって終わりが近づくにつれて、踊りだったらどんどんどんどん盛り上げていきたいところなのだけれど、今回のお料理は「漬物」。終盤にかけて地味になる。そんな火曜は、どうでしょう。

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生まれてこのかた、気づけば我が家にはぬか床があり、私の兄弟の成長とともに、ぬか床も成長していった。季節によって付き合い方の変わるぬか床、母は毎日毎日、玄関先のぬか床の壺の蓋をあげて、様子を見たり、かき混ぜたり、余ったお野菜を入れたりするのが日課である。ぬか漬けはもちろんのこと、浅漬けになったり、白菜漬けになったり、漬物とはすこし違うかもしれないけれど酢漬けにしてなますを作ったり、あとは松前漬のようなものを作ったり。なんでそんなに漬物ばっかり、母は真面目に作っているかというと、父がめっぽう漬物好きだからである。

私の父は欲がない人で、それは家業も影響しているのかもしれない、(・・・おそらく彼の地道な鍛錬によって磨き上げられたのかもしれないが、)本当に欲がない人だ。私はこんなにも欲張りに暮らしているのが信じられないぐらい対局の人で、洋服もそう、小物もそう、食べ物もそう、どこへ出かけたいもそんなに言わないし、ただ粛々と人様のお役に立てればとあれこれ考えて自分なりに地道に暮らすそんな人だ。

私は地球がひっくり返っても、彼のようになれる自信もないし、彼のようになることが自分らしいかどうかもわからないので、無理して無欲を目指したりするのは大学生ぐらいで諦めたのだった。父と母は、それぞれの妹同士が友人だったこともあってご縁があり、お見合いで結ばれた夫婦だった。お見合いってそううまくいくものなのかしら、と私なんかはずっと思って疑っていたのだが、どうやら父と母はうまくいっていて、お互いに保守的で真面目の中の真面目だからかいい関係だった。

母は、ハッピーな人なので、今日飾ったお花の話や今日漬けた大根がとても綺麗な色だからと自慢したりして、父は「そうかそうか」と決してなにか有意義なフィードバックをするわけでもないが、でもその無意味に思える一言や相槌で、二人ともほのぼのとしている。そんな20数年を送っている二人だ。まぁ、こうやって書いてしまうと全てがうまくいっているようにも聞こえてしまうけれど、きっと私の知らない葛藤やうまくいかない日もたくさん超えて、関係が成熟してきたんだと思う。

さて、そんな無欲な父が唯一欲らしい何かを出すのが「漬物」についてだった。

「お母さん、今日はお漬物ないの?」

父が何かの物に対して「〜〜〜ないの?」と聞くことは、正直お漬物以外で聴いたことがない。
我が家は、人様にごはんをお出しする日も何度かあったりするので、豪華な日と省エネの日がかなりまちまちなのだが、ほぼ毎日なにかと漬物が大きな役割を果たしている。白いご飯にお漬物。あとお味噌汁。もうとってもシンプルなこのセット。なんならお味噌汁の具が、省エネを過ぎてあんまりなくたって、お漬物さえあれば、モーマンタイ。結果オーライ。ケ・セラ・セラだ。

「はい、今日はきゅうりですよ」

母はそっと差し出す。決して華やかではないけれど、深い藍色の模様が入ったお皿やかなり渋い釉薬で色付けられた器などへこじんまりと、ひっそりと漬物たちは佇んでいる。我が家へは八百屋さんがくれた躍動感のあるきゅうりも届いたりするので、私なんかが切るとあんまり整列してくれないのだが、母の手にかかればリズミカルに切られて、ちゃんと並んでくれる。

ぬか漬けってどういう原理なんだろうと、なんどもインターネットや本で見てみたりするけれど、やはり発酵の力というのはすさまじくて、程よいタイミングでぬか床から引き上げたきゅうりは、その水々しくて瓜らしさはそのままに、白いご飯へと橋ができるような絶妙な塩味とまろみに何度でも惹かれてしまう。なんなら、父に似たとすれば漬物好きぐらいかもしれない。

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先日、といっても本当に最近のことなのだけれど、恋人とふたりで歌舞伎町近くの中華料理屋さんに行った。そこは何度か訪れていておいしいのがわかっていたので、入り口で「満席ですよ」と店主の方に言われても「待ちます、待ちます」と坂上二郎ばりに即答をした。他愛もない話をしながら、席が空くのをのんびり待っていると、お会計を済ませた大変威勢の良い、妙齢のおじさまがたが私たちの前に現れた。

「どうもどうもお待たせしましたよ」
「いいえ、ご丁寧にありがとうございます」
「ここ、いつ来ても何食べてもうまいよね」
「そうですね」
「俺たち毎月この週のこの曜日はみんなで来るって決めてるんだよ」
「仲良しですね、いいなぁ、そういう仲間がいるって」

そんなふうに楽しくお話ししていると、お仲間の野球帽をかぶった顔が真っ赤のおじさまが、「よーよー」と声をかけてこられた。
何かなと思っていると、

「ちょっと君たちによ、これあげる」
「え?なんですか?」
「松前漬」
「松前漬??」
「今日みんなにあげようと思って作ってきたんだけどさ、一人これなくなっちまってさ。待たせちゃったからこれやるよ」
「え、もらっちゃっていいんですか?おじさん北海道のかたなんですか?」
「いいよいいよ、俺はただ松前漬が好きなだけ。こないだ北海道に勉強しにいったんだ。毎年作ってるんだけどね、今年は相当うまくできたのよ」
「そうなんですか、すごいですね、北海道にまで行っちゃうなんて!」

恋人と目くばせしたら、優しい顔をして笑っていたので、私がもらうことにした。

「おじさん、ありがとうございます。家族で食べますね!」
「いいのよいいのよ、ありがとう!それじゃあね!邪魔したね」

エレベーターが閉まって、おじさま軍団は帰っていく。

「どうしよう、これいただいちゃった」
「急な展開だったね」
「ね。これ私もらっちゃっていい?」
「いいよ」

おいしく中華をいただいて、大事に大事に家まで持って帰った。これは、母に報告する事案だ。

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「ただいま帰りました」
「おかえりなさい、あらそれどうしたの?」
「さっき飲んでたら知らないおじさんにいただいたの」
「あら。いただいちゃって良かったのかしら。かわいい瓶に入ってるわね」
「松前漬が好きで北海道に勉強に行っちゃったんだって。毎年作っているけれど今年は相当良い出来だって。」
「それは楽しみだわ。明日食べてみるね」

その翌日、家に帰ると、さっそく瓶に入った松前漬が減っていた。

「お母さん、松前漬食べてみた?」
「それがね、すごくおいしいのよ。これはかなりの名人の仕業ね。数の子もたっぷり入ってるの。そしてお母さんが作るのよりも、お酒がきいてる」
「え。数の子結構しっかり入ってるね。しかも、良い香り。」
「ごはんが相当進んでしまいました」
「でしょうね。私もはやく頂こう」

本当に、本当に、ごはんがよく進んだ。
ほんの一口で、箸を3回往復させてしまったのだから。食べ進みながら、母と会話をしていくと、この名人へのリスペクトを語り始めた。母は漬物について実は私が思っている以上に、熱い。日々試行錯誤を重ね、向上心を絶やしていないことがうっすら感じられた。これもまた、父や家族や食べ物に対しての愛情というか、そういう気持ちなのだろうか。

半分言葉遊び、でも半分は本気で。ははーん、これぞ、愛の熟成だな、と思っている。
うやうやしく書いてしまうとなんだか、崇高でいて、ちょっと手の届かなそうな言葉なのだけれど、地道で地味なお漬物のルーティーンのなかに、私は確実にそれを見出したのだった。見ず知らずのおじさん、いや名人、上出来の松前漬をありがとうございました。またあの中華屋に行くときは、なにかお菓子かなにかを持って行こうと思う。おじさんのお漬物があったから、母のそうした積み重ねにすこし気づいた。

愛の熟成。長けりゃいいってものでもないけれど、その湿度だったり、空気の質だったりでいろいろにも変わっていくのだろうな。それは夫婦や恋人に限らずのことで、大切な人の間には存在する何かなのだ。家族という言葉や概念がなくっても、その何かは存在する気がした。お漬物は大変ラブリー。今日もおいしくいただこう。

(次回はさらに地味ですが、つづく)