優等生

第43期

関東のいくつかの町を転々とした後、小学校の高学年になって岡山県に引っ越した。

 

岡山には難波(なんば)という苗字が多い。関西弁ネイティブの私にとって「なんば」は「なんば・道頓堀・アメ村」のなんばであり、「サンバ」の発音なのだが、苗字の「なんば」はどうやら「さんま」と同じらしい。サンバじゃなくてさんま!と訂正され続け、正しい難波さんの発音を習得するのに二週間かかったが、逆に二週間すると流暢に岡山弁が話せるようになった(岡山弁は岡山から離れると耳にすることがほとんどないのですぐに錆びてしまった、今はもう全く話せない)。

 

転校した先の岡山の学校は、少子化による生徒数の減少に伴って、二つの小学校が併合されたばかりのところだった。二つというのはそれぞれ、北側にあるお屋敷町の校区と、南側にある下町の校区である。これら二つの校区は、それぞれかなり異なる文化を持っていたので、合併してから数年、少なくとも私がその小学校を卒業するまでは、完全にはブレンドされず、誰に指示されたというわけでもないのに、子供たちのグループも旧校区の区分に忠実に則って成り立っていた。家が近くて登下校の途が同じだから、というだけではない。北と南では放課後の過ごし方が全く違うのだ。北のお屋敷町の校区の子供たちは、高学年になるとかなりの割合で中学受験の塾に通ったが、南の下町の校区出身で放課後に塾に通う人はほとんどいなかったように思う。私は、合併した後に引っ越してきた身分だったので、厳密にはどちらのグループにも属さないのだけど、住所が北側だったので、旧お屋敷町校区の小学生たちと多くの時間を過ごすことになり、自然と彼らと一緒に塾に通うようになった。転入した頃に、サンバとさんまの違いを教えてくれたのも彼らだった。

この岡山の小学校が、幼稚園・小学校だけ数えても自分が所属する4つ目のコミュニティだったので、「一時滞在者」として人と付き合うクセは、すでに私の体にベッタリ染みついていた。ところが「なんば」も習得しすっかり岡山弁をベラベラしゃべるようになって一年くらい経ったときに、私はよそ者ではなくすっかりローカルな岡山っ子になってしまった。北側の学区に馴染みすぎて、転校生としての珍しさでは全然勝負できなくなってきたのだ(何にも勝つ必要はないのだけど)。

 

転校生としてのアイデンティティがすり切れた頃に、私は北側から南側への越境という形で自分の「珍しさ」を回復しようとした。北側と南側は十分よそ者同士であり、北側の—というか北側に同化してしまった—私が南側のグループに入る、というのはそれだけで珍しいことだった。

 

南側の校区のみんなは、不良ではないにしてもその素質が十分ある人が多かった。とにかく、10歳や12歳にしては大人びすぎていて、世間ずれしていて、達観していてカッコいい。私を含む北側の校区の子供たちが、塾や習い事に行くのに手作りのお弁当を持たせてもらい、その上車で送り迎えまでしてもらっているというのに、彼らは、両親がお店を経営しているとかで夜遅くまで一人なので、自分でご飯を作ったり、コンビニでおでんを買い食いしたりしていたのだ。カッコよすぎる。

 

旧南小学校の子たちの仲間に入れてもらうというのは、不良文化に独特のスリル感以上に、私にはとても居心地がよかった。

一つは、旧北小学校のみんなといたときと違って、私がそこに「すっかり馴染んでしまう」ことが絶対になかったからである。放課後に一緒に遊んでいても、私には塾やピアノのレッスンや、そうでなくとも門限があるので、暗くなる頃には私は北の校区に戻る—彼らは真っ暗になってから、南学区にある商店街や空き地で、中学生のお兄ちゃんたちと遊ぶというのに。彼らからすれば、どこまで行っても私は「北学区のお嬢さん」であり、あくまで一時的に(午後の4時から6時の間だけ)つるんでやっている相手だったのだと思う。お互いに、バックグラウンドが違いすぎて絶対に分かり合えない、というような妙な確信があった。私が、帰らなくちゃ、と言うと、鐘が鳴って魔法がとけたみたいに彼らがよそよそしくなり、なぜか気を使って見送ってくれるのが、寂しくも心地よくもあった。

もう一つ、彼らの仲間に入れてもらうことで強烈な相対化の作用を受けるのが、何とも痛快だったからだ。相対化というと大げさだが、10歳の感受性にとってはほとんど異文化といっていいくらい、北と南の間には隔たりがあった。放課後の過ごし方が違う、というだけでは不十分である。物事を評価する基準、より正確に言うと「気にしている」基準が全然違う。成績や学校の先生からの評判といったものが、彼らの前で全く無力だった。旧南小学校のグループの間では、勘がいいかどうかとか、面倒見がいいかどうかとか、年上相手にビビらないかどうかとか、そういう基準の方が優先順位が高かった。私は当時勉強が得意だったので、大人からはそこそこの優等生として認定されていたのだけど(それは北側では大事なことだ)、当然彼らにはそんなことは毛ほども評価されない。南側のコミュニティに一時的にではあれ身を置くことは、北側にすっかり馴染んでしまった私を北側の定規で測定しようとするモーメントへの反抗だったのだと思う。

ポジティブな評価だったとしても、それに浮かれてしまって、その評価に自分が回収されてしまうのが嫌だったのだ。引っ越し生活の中で獲得した、「あなたにすべてを理解されているわけではない」という感覚からすると、私にとってそれは耐えがたいことだったのだ。