ドッペルゲンガー

第43期

CXmRqWUUQAAm1ve他人は私のことを理解していない、という実感は、人と人はわかりあえないかもしれない、という予感とセットである。

 

この人は私のすべてを理解していない、知り尽くしているわけではない、というのは、

一方では相手の察しとか配慮とかいうものに乗っかるのを控えるという意味で謙虚かもしれないけれど、

他方で「まだまだ私はこんなもんじゃないぜ」という傲慢な自意識(というか矮小な自己防衛)の現れでもある。「人と人なんてわかりあえない」という言説は、「他人は私のことを理解してくれないもんね」という矮小な自己防衛を、勝手に人間一般の性向として言い換えたものでしかない。

 

家族の都合で中学に上がるまで2年おきに引っ越しをして、そのたびに友達の総入れ替えを経験していたことも影響してか、一人の人に理解しつくされることへの遠い諦めと、理解しつくされないゆえの安心感がずっとある。この諦めと安心感が、いまだに私が人と付き合うときの最も基本的な身振りを形作っていると思う。

 

まだ23になったばかりだけど、これまでに一人だけ例外がいた。もう5年以上前のことだ。

 

その人は、性別も体格も性格も違ったけれど、とにかく私と頭の中身が似ていたのだ(初めて言葉を交わしたときのショックを忘れられない)。考えたり感じたりしている中身、だけでなく、その濃淡までもが完全に一致する人だった。もちろん、何か他人が話したり書いたりしたものを目にして「まさにそれ私も考えていました!」と(後出しじゃんけん的に)思うことはあるけれど、それよりももっともっと強烈な一体感だった。私が彼のことを理解していたとは今になってはおこがましくて言えないけれど、少なくとも彼は私のことを(私のA面もB面もC面も)手に取るようにわかっていたのだと思う。あまりにも彼の理解が正確すぎて、回収されたくないとか、理解し尽くされたくないとか、そういう普段他人に対して感じているような拒否感を抱く余地さえなかった。おそらく初めて、全人格的な信頼を置いた(というか置かざるを得なかった)相手だった。

 

その出会いは、ドッペルゲンガーに鉢合わせる、とかそういうのに感覚的には近いもので、運命を感じてしまうほどソックリだけれど、ドッペルゲンガー同士の二つの人格が親密である必然性はどうやらないらしい。その人とは地理的に離れていることもあって、結局すぐに疎遠になってしまった。いずれにせよ、彼のような人がいる(より正確には、私と彼のような人間の「何もかも理解しあえる」組み合わせが存在する)というのを目の当たりにしたのは、忘れられない衝撃体験だった。

 

だから、「あなたは私をすべて知っているわけではないですし」という留保で身を守るクセがありつつも、「人と人なんて所詮はわかりあえません」という過度に単純化したニヒリスティックな態度に私は与することができない。そういうことを言う人を見ると、ドッペルゲンガー体験をしたことがないか(でも私が彼と出会えたのがラッキーなだけだったと思う)、もしくは「私はあなたが思ってるよりもっとできるもんね」という矮小な自己防衛が必要なのか、あるいはその両方なんだな~と思う。私には人と人はわかりあえる「場合が存在する」という確信がある(だって身をもって経験したし)。人と関係を作るときに全部わかりあう必要はないし、わかりあえたところで関係を盛り上げたり維持したりするモーメントが強くなるわけでも必ずしもないのだけど。