芸術と無(1)

第43期

0 ステートメント

従来の芸術には、大別して二つの系譜があったように思われます。
一つはある特定の社会や集団を素材に、存在する矛盾や運動ないしは抵抗や性質を、具体的かつ徹底的に批評していこうとする、いわば国民国家を前提とした芸術。
もう一つは本人の極端な経験や固有の知識、あるいは新たに発明された技術を踏まえ、我々人類が誰しも直面するほとんど暴力的なまでの人生の不毛さを共有するための、いわば質や精神を前提とした芸術。
これら二つは互いに緊張感を保ちつつ、しかし政治的にも経済的にも相補的に機能してきており、それが20世紀までの芸術に対して、ある特定の芸術像を与える役割を担ってきました。
しかし私は、これら二つの系譜の間に生じる緊張感では芸術という運動は持続不可能な局面に差し掛かっているのではないと考えるようになりました。
もし芸術に運命というものがあるのだとしたら、その命運が尽きないことを望む時、この国民国家からグローバリズムへと至る社会変革と、心理の発明や無意識の発見から人工知能へと至る技術開発との間で引き裂かれ、矛盾するかのような状況に追い込まれている芸術に、新たな無を与えるような分析が必要になるでしょう。
私が今回の連載で始めたいと思うのは、そのような「芸術と無」に関するいくらかの思索を、言語という形で残すためのプロジェクトです。
あらかじめ結論づけるのであれば、芸術が最も輝くのは、一つの思想を練り上げようと努めながら、しかし思想の一貫性を保ち続けることのできない現実が立ちはだかった時に、そこに卑小かつ、きわめて誠実な、ある決断が現される場合です。
しかし、そういった芸術の基本的性質が、深さを伴って人類全体の幸福となるには、ある決断が別な決断へと、何らかの偶然や心理、知識や経験を与えられることで移り変わってしまう現実が必要です。
なぜなら「ある決断」を徹底し、それを不変のものとする徹底の果てには単なる現実の肯定としての運命論しか存在しないからです。
私が芸術の運命、そして命運という時、目指すものは、単なる決断主義ではなく、時間の尺度を持って一つの決断が別な結論へと変化する不確定性に賭けるということです。
そして私は芸術家として、そのような別の運命のための決断と変化を、時間という尺度を使わずに現実のものとするための存在を芸術と定義します。
ここにおいて、芸術における社会変革と技術開発の引き裂かれは、再統合と分離を反復することで、芸術と無へと棲み分けることができるのではないかと思うのです。
多かれ少なかれ芸術家と呼ばれる人たちは、以上のような現象に遭遇してしまった、そのような現象があることを知り、その到来を歓待することを始めてしまった人たちのことを言います。
これは予断となりますが、僕はそのような芸術家を擁護したいし、そのためには大胆な芸術家像、あるいは芸術の進歩が必要であるように思うのです。
あらゆる出来事は普遍的な問題を含んでいる、ということと、あらゆる出来事は個別で不確定である、ということは両立します。
その両立のために可能な限り挑戦すること、そのためのプロジェクトとして「芸術と無」はあります。

取り急ぎ、今回の連載を始めるにあたってのステートメントを書きました。
しかし一方で、このアパートメントというメディアに連載をさせていただくにあたって、準備していた「私はいまアパートメントに住んでいる」という文章があります。
今回は、それを以下に掲載し入稿とさせていただきます。

【私はいまアパートに住んでいる】

1 挨拶

この連載のお話をいただいた時、私は文章を書くことを決めた。現にそれから毎日、何かしらの文章を書き付けるようにしている。私は元々は美術作家なので、あまり文字という形でアウトプットを作ることが多くない。なので、こうして定期的に文章を書くというのは新しい試みで、こういう新しい試みをいただけたことをありがたく思っています。

さて、私はいまアパートに住んでいる。アパートというのは共同住宅なので、当たり前の話だが隣人がいる。ではその隣人が、どのような人々かということを私たちは気にすることができるだろうか。私は今まで、隣人を気にしないで生きてきた。なぜそのような心性が育まれたかと言えば、簡単な話、物心ついてから私の実家が共同住宅ではなく、またさらに自分の部屋などというものがあったので、そこで他人を気にせず生きていくことができたからだ。

他人を気にせず生きていく。この言葉にどのような印象をうけるかは人によって様々だとは思うが、私は少し気取った、そして自己を弁護するような人の感じがする。気取って自己を弁護する人、それは個人主義となった現在においては、むしろマジョリティかもしれない。そこから他人を気にするようになって生きるためには何が必要だろう。

この連載では、私は他人を気にしてみたいと思う。それは他の人の連載にちゃちゃを入れるとか、そういうものではない。むしろ自分の書いた文章に対するエフェクトが発生することを、意識的に考えながら自己表現を行おう、ということである。たぶんそれが「アパートに住む」時に最初に必要とされるスキルなのだろう。

だからこの最初の文章は、引っ越してきた私の隣人への挨拶のようなものだ。菓子折りくらいあったら良いと思うが、文章に菓子折りは無い。せめて角が立たないように書くことを心がけたい。

2 気取り方について

人間には色々な気取り方があるものだと感心することが多い。菓子折りやタオルを持って隣人に挨拶に行く人というのは、気取っているということを悟られない気取り方をしている。あるいはいつも偉そうな人は、気取っていることを隠さない気取り方をしている。僕にはそのどちらも好ましく見えるが、一方で「あなたはどのように気取るのですか」と聞かれると、はたと困ってしまう。

私は態度に一貫性がないことが多い。それは概ね、気取りすぎだからである。私は自分が美術作家だと思っているし、会社経営者だと思っているし、またあるいは宇宙人のようになりたいと思っている。つまり個性的であることを求めていて、それは気取りすぎの第一歩だ。では気取りすぎないためにはどうすれば良いのかというと、没個性であればいいかというと、これもまた違う。必要なのは個性的であることを求めない程度に個性的であることだ。

30歳以上の人間は真実を語らないために「社会」というものに参入しがちだが、僕も30歳になって急速に社会化したタイプの人間で、社会に参加する時に求められるのが、まさに「個性的であることを求めない程度の個性」である。近年の炎上というのはつまり「社会に参加しない」と宣言することだ。宣言してしまえば、あとは簡単で「あの人は社会に参加できないのだ」あるいは「あのような不参加は良い/良くない」という議論が発生する。社会という湖に石を投げる作業というのは、まだ湖に腰まで浸かっていない若者の特権だったはずだが、近年はそうでもなくなりつつある。

気取り方というのは、基本的には態度の問題だが、より具体的には「湖に腰まで浸かっていることをいかに感じさせないか」である。その昔、浮世離れという言葉があったが、いまでは普通に生活することは憂き世を離れた者の特権となった。

3 隣人を愛するには

翻って私たちが「隣人を気にする」には何が必要か考えてみると、これは隣人の憂き世に関知しないということではないかと思う。例えば隣で喧嘩や事故などの物騒なことがあった時、私たちはついつい隣人の憂き世に関わろうとする。しかし関われば関わるほど、私たちは当事者として憂き世のメンバー入りを果たし、そのうち憂き世の一員として離れられなくなっている。

アパートで隣人に菓子折りやタオルを配る人というのは、隣人が喧嘩した理由がたとえ菓子折りやタオルだとしても気にしない。その無神経さが浮世離れしており、またそこで自分は神経質だとも無神経だとも主張しない、繊細さの無さが重要なのだ。愛とは無関心を貫くことである。

そこまで考えてみてから、このアパートメントという新しい入居先を見回してみると、ここには気持ちの良いほどに愛が溢れている。ここには隣人に対する思いやりも嫉妬も、あるいは離れられない憂き世も無い。この連載に誘ってくださった編集者の方には「好きに書いてください」以上のことは何も言われていない。

何も言われていないからこそなんでも書けるのであり、浮世離れした共同住宅の運営が可能になったのだと考えられる。それは非常に興味深いことであるし、そのような場所に住めることは非常に貴重な経験だろう。そんなこんなで挨拶のために書き始めた初回にも関わらず、挨拶そっちのけの文章になってしまった。関心を持たれにくそうな内容で恐縮だが、今週は筆を置いて、来週は何を書くか考えたい。

とにかく私はいまアパートに住んでいる。