清掃道具入れのアップリケ—ささいなことだけれど

第44期

いつからか、人の手による、ささやかだけど確かな工夫に関心を寄せています。

先週とある駅でも見かけました。

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エスカレーターを降りた先に停められていた、清掃道具を入れるカート。
見かけた時は、「クリーンカート」の「ン」から点(ヽ)が抜けて「クリーノカート」になってしまっている可笑しさにひかれてカメラを向けました。しかし数日後にパソコンで写真を見返すと、見かけた時以上にぐっとひかれてしまいました。

清掃道具入れに施されたアップリケは、他者に対する、かなり純度の高いはたらきかけだと思うんです。
ささやかだけど、確かにかかっている手間。
必要性を超えた、なくてもいいはずの工夫。
極小化された、受け取られることへの期待や強制。

<手間>
カートの側面をにぎやかす数々のアップリケは、手づくりでしか生まれない個性的な装いです。フェルトを裁ち、組み合わせて作り上げられた一点モノ。形状はさておき、色のチョイスは意外に的確です。

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(モデルとなったと思われる新幹線E4系)
 
<工夫>
もとより、会社名と思われる「NTSクリーンサービス」の文字列はともかく、新幹線や草花のアップリケを清掃道具入れに施す理由はあまりなさそうです。会社名だって、アップリケでなくてもいい。
確かに鉄道もサービス業ですから、イメージアップのために清掃道具入れも見栄えよくしよう、という発想があっても不思議ではありません。でも仮にそういう発想のもとに上からの指示でつくられたアップリケなら、もっと小綺麗になっているでしょう。いずれによ、このアップリケたちからは、それらが嫌々ながらつくられたようには感じられません。つくり手の自主性が、少なからず感じられる。指示の枠外から、あるいはそもそも枠のないところから生まれてきた、アップリケ。
 
<極小の期待や強制>
アップリケは装飾ですから、誰かに見られることが少なからず意識されると思います。このアップリケからも、見る人、特に子どもを楽しませようという気持ちは垣間見えます。しかし、どうか私たちの工夫に気づいてくださいというような、見る人に対する過度な期待は感じられません。見ることを強いるような刺激的な図柄や色合いでもありません。つくることそれ自体が喜びであったり、完成した時点でつくる目的が成就されているような、誰かに見られる以前に既に満ち足りている感じがあります。
 
 

この清掃道具入れに限らず、人の手によるささやかだけど確かな工夫は、様々なところ・かたちで見られます。
例えば、軒先の園芸や、バス停の近くなどに置かれた不揃いな腰掛け。

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そのような工夫があるということは、すなわち、そのような工夫をする人がいるということです。
自宅やお店の軒先で草花の世話をする人たち。バス停の近くなどに腰掛けを置いていってしまう人たち。
世のため人のためとうそぶかずに、あくまで自分のために。そして必ず世のため人のためになっているというわけではないけれど、しばしば身のまわりの人たちに、彩りや休息の提供というかたちで、はたらきかけている。

そういう人がいる空間、そういう人がつくる空間は、どれほどささやかであっても、やっぱり生き生きした空間であると思うのです。
おそらくそういう人にあっては、その人が空間にいることと空間をつくることのあいだに、事実上差がない。その人にとって、自分がいる空間は、すなわち自分がなんらか関与をする空間である。それゆえその空間は、少なからず自分の空間になっている。そんな感じだと思います。生き生きとした空間は、誰かにとっての自分の空間である。(私的な空間である、という意味ではありません)。

いや、でもちょっと違うかもしれません。そういう人がつくる空間がというよりは、人がそのようにあること自体が、空間が生き生きしていることのような気もします。あの清掃道具入れがここにあることよりも重要なのは、ささやかだけど確かな工夫をする人がいることや、その人がそのような工夫をすること、できること。清掃道具入れは、訪れた人にその空間が生き生きしていることを知らせる目印にすぎないのかもしれません。

写真で見返した時ひかれてしまったのは、その時にようやく、その清掃道具入れが知らせているものに気づいたからだと思います。