まな板焦げ事件のゆくえ—ささいなことだけれど

第44期

火曜日のこと。

朝、すぐ近くの商店街をいつものように自転車で通り抜ける。
駅まで行く時に必ず通るこの道は、バンや小型のトラックがギリギリ通れるくらいの道幅しかない。なので、それらの自動車と僕のような自転車とのすれ違いは、どちらかが一時停止しなければ難しい。基本的には自動車が一時停止するし、交通ルール的にそうするべきだと僕も思っている。ただ、状況によっては自転車の側が停まることもある。ルールを杓子定規に主張するよりも、その方が下町の狭い道路にはよりよく適応できる。

この日も、小型のトラックが対向からやってきた。
前を走る自転車は、電柱の脇で一時停止した。僕もその人にならって一時停止し、トラックが行き過ぎるのを待った。
すれ違う際に、フロントガラス越しに運転する人の顔が見える。その中年の男性は、ただ平然としていた。
少しだが、ムッとした。
こういう場合、とりわけ僕の住むまちでは、大抵の人は目配せや手のしぐさを見せる。自動車よりも歩行者や自転車の方が優先であるという認識と、それでも状況を見て一時停止してくれたことへの感謝を表すために。
別に自覚や感謝を表してほしいから一時停止をするわけではない。しかし、そのようなわずかな行為がなされないならば、ルールに対して柔軟であることはやっぱり難しいと思う。
 
 
モヤモヤした気持ちを忘れたころに大学へ着いた。
所用のため、大学内のとある事務所的なところへ行った。
中へ入ると、受付の裏からいつものおばちゃんが出てきた。しかしいつもと違って、なにやら口をモグモグしている。
寝坊でもしたのだろうか。また、混雑するよりも少し前の時間だったから油断していたのだろうか。
そのおばちゃんは、ちょっとバツが悪いというような表情で、でも僕の顔を見て「ああこの人か」とちょっと安心したような様子も見せながら、急いで飲みくだしつつ応対する準備を進めた。
僕は安心した。おばちゃんがちょっと急いでくれたので、応対が遅れたことを不快に思わずに済んだから。
同時に、ちょっと得したなとも思った。受付の人がモグモグしながら出てきたその状況が可笑しかったから。
その二つのおかげで、一件は笑い話に変わった。その場で笑ったりはしなかったけれど。
急いでくれなかったら、きっとムッとしていた。可笑しくても、笑えなかった。
用事は滞りなく済んだ。
 
 

 
 
僕は戸建てを4人でシェアして暮らしている。
この日の午後に、住人の一人からライングループに連絡があった。
「あほみたいに魚を買ってきてしまったので、もし今晩暇な方いれば、魚食べませんか、、?」
独立を見据えながら近所の飲食店で修行中の彼。魚についての勉強を最近独学で始めたところだった。ワクワクしながら、帰りが遅くなるけどぜひいただきたいですと返事をした。

そういえば前の日には、彼が出先で購入した出刃包丁がポストに届いていた。レターパックライトで発送されていて、品名欄には「出刃包丁」。封筒の対角のふくらみから、箱に入った包丁の存在感がにじみ出ていた。
包丁ってレターパックで送れるんだっけ?と若干の不安を覚えつつも、その直截的な梱包に思わず笑ってしまった。
ちょうど玄関にやってきた彼にレターパックを手渡すと、「お、やっと届きましたか~」とただただ嬉しそうな表情をしていた。
 
 
この日やるべきことを終え、魚を心待ちにしながら21:30ごろ帰宅した。
手を洗い、いそいそとリビングの食卓へ。彼が勧める方法に則りながら、皮目を炙ったカツオのお刺身をいただいた。赤身の味わい深さがしっかりありながらも臭みがなく、とても美味しかった。
次はどれをどう食べたらいいのだろう?と舌鼓を打ちながら迷っていると、「そういえば、言わなきゃいけないことがあります・・・」と彼。
「すみません、カツオをバーナーで炙ったら、まな板が焦げちゃいました・・・。」
この家のまな板は僕の私物をみんなで使っているのだが、確かに焦げていた。

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「木のまな板だし、そりゃ焦げるよね。笑」
木のまな板の上で炙りをやるという愚かさが可笑しくて笑ってしまった。
彼がまな板を焦がしてしまったことに対して、ムッとするようなことは全くなかった。随分長く使っているまな板だし(もちろんその分愛着はあるが)、こんなに美味しい魚をご馳走になっている。なにより、それはとても可笑しかったし、実際に笑ってしまった。そのうち買って返しますんでという彼の申し出ももちろんお断りした。
 
 
まな板焦げ事件を笑ってしまえて、とてもよかった。
笑ってしまったら、そのことは大概どうでもよくなってしまう。気にならなくなったり、許せてしまったりする。それも、あまり無理のない形で。
あるいは、単に許せるどころか、むしろそれが起こってよかったとすら思えたりする。だって、笑えたのだから。それがなければ、笑いは起こらなかった。

どうでもいいことだから笑ってしまえる、というよりは、笑ってしまうことによってどうでもいいことになるのだと思う。その物事に関わるなにがしかの要素が原因で、それは「可笑しいもの」になる。そして笑ってしまうことで、その物事はどうでもよくなる。

まな板焦げ事件を笑えたのは、焦がしてしまった彼の人柄によるところが大きかった。彼なら悪気はなかったはずだし、大丈夫だろうと楽観視した結果失敗したことがどこか彼らしくもあった。焦げの具合も絶妙だ。それほど大きくはないが、残念ながらよく使う部分についてしまった焦げ。
 
 

 
 
世の中には、物事を「可笑しいもの」にすることに長けた人がいる。そういう人を指してユーモアのセンスがある、と言うのだとすれば、ユーモアのセンスがある人は、秩序に合わないものと折り合いをつけるのが上手な人だと理解することができる。

笑ってしまうことによって、秩序に合わないものを、秩序に合わないと認めながらも、秩序を保ったまま許容することができる。それは秩序に合わないけど、別に大丈夫。あるいは、大丈夫じゃないところもあるけれど、それはあなたのせいじゃないから、みんなでなんとかしよう。そういうことにすることができる。

「災い転じて福となす」や「笑う門には福来たる」は本当にその通りだと最近思う。
もちろん、笑ってしまえないものや、笑ってしまってはいけないものもある。笑いによって人を深く傷つけることだってできるし、どんな笑いも少なからずその危険性をもっている。
でも、逆に笑ってしまった方がいいことも、たくさんある。笑ってしまえれば、秩序に合わない様々なこと、失敗やとがった個性を、否定しないどころかプラスに変えることができる。唯一ではないにせよ、とても重要な方法だと思う。

第2回でも書いたように、人間はもとより不確かな存在だ。人間が不確かなまま存在する限り、そこでは秩序に合わないことが必ず起こってしまう。その際に、起こったことを笑ってしまうことができれば、それはとても喜ばしいことだ。人間が不確かな存在であることが、楽しさになる。人間がちゃんと人間らしくあるということだけで、楽しさが得られる。

秩序に合わないものとは、なんらかの形で折り合いをつける必要がある。秩序に合わないものをただ放置してしまっては、秩序を維持することができなくなってしまう。どうせ折り合いをつけなければならないなら、すべてを笑ってしまえるわけではないとしても、できる限り笑ってしまう方がいい。笑いという楽しさを逃すのはもったいないし、単なる忠告や叱責では誰も幸せにならない。

笑ってしまえる物事や、その物事を笑ってしまえるかどうかは、とてもささいなことだ。
そう、確かにささいなことだけれど。
ささいなことが、世界の回り方を決める。
そう信じてやまないのである。
 
 
残念なことに、僕にはあまりユーモアのセンスがない。
そんな僕でも笑ってしまえるような物事が身の回りで起こる状況を、とても嬉しく思った。
せめてそういう物事を、ちゃんと笑っていきたい。
 
 
 
 
 
——余談——
記事を書きながら、「してしまった」という言葉はやっぱり好きだと再認識した。
どうしようもなかったこと、それはあなたのせいではないということを、やわらかく表現できる。
人は全てを思い通りにできるわけではないという謙虚な認識が、日本語を用いる人に語彙という形で共有されている安心感。もちろん、使い方によっては「言い訳」や「責任逃れ」となったりもするのだけれど。