言葉なき対話〈004〉アーカイブとはなにか:前編

長期滞在者

〈下図版:資料はアーカイブの要。これらは全て深瀬昌久関連。左上のファイル群は200冊強の雑誌スクラップブック〉

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2014年に深瀬昌久アーカイブス(以下、MFA)を起ち上げて、今年で5年目となりました。5か年というのはひとつの節目ですから、起ち上げ当初に私が掲げた目標と、それを実現するためのビジョンを改めて振り返るには丁度良いタイミングでもあります。そこで今回より数回に分けて、物故作家のアーカイブという仕事について書きたいと思います。

アーカイブという言葉そのものは、インターネットが普及した現在においてこそ少しずつ使われるようになりましたが(ブログ投稿やGmailのアーカイブ機能など)、組織名にアーカイブを冠した例というのはまだまだ一般的ではありませんし、そもそもアーカイブという言葉にはどういった意味があるのかということはあまり知られていないと思います。そこで本稿ではアーカイブという言葉の意味について触れ、あくまでも私自身の体験を基にしながら、アーカイブを目的とした団体というのが一体どんなものなのかについて説明させてください。

まずはアーカイブという言葉について。皆さんに馴染みのある例をひとつ挙げるなら「NHKアーカイブス」でしょうか。実際にテレビで観たことがある人もいると思います。これはNHKがこれまでに制作してきた映像コンテンツを放映する番組名です。この例に限っては「再放送」と言い換えると分かりやすいと思います(これはあくまでもアーカイブの狭義として、しかもオリジナルの放映からだいぶ時間が経った後の再放送に限って当てはまると思いますが)。アーカイブという言葉そのものは「記録し、保存する」という意味ですが、NHKアーカイブスを例にしても分かる通り、一般的には「記録し保存する」ことだけでなく「後世に伝える」ことも含まれます。むしろ「後世に伝える」ことに重点が置かれた言葉だと思います。というのも「記録し保存する」対象になるべきものとは本来、時代を超えて後世に伝えられるべき文化遺産であるからです。その点において、私たちにもっと馴染み深いものを挙げるなら、書物というのはそれこそ1冊1冊がアーカイブであるとも言えるでしょう。

私たちがこの時代に生きて触れる物というのは、この時代においてこそ当たり前にすんなり理解できるものとして認識されます。しかし時が経てば、その物をその時代に用いた経験がある人でない限り、それがかつて存在した事実が簡単には受け入れられなくなります。例えば、近ごろ話題になったことで興味深い話があります。iPhoneなどのスマートフォンでは電話のアイコンに受話器のイラストが採用されていますよね? 30代以上の人なら「そんなの当たり前じゃないか」と思うかもしれませんが、現在の若者のなかには受話器を手にした経験がない人もいて、そうした人にとっては奇怪なアイコンに見えるんですって。おもしろいですよね。このように時代が進むにつれ、それまでは空気のように誰もが理解できたことが次第にそうではなくなっていくことがある。

そこでアーカイブの概念が重要になってきます。物であれば、かつてそれらが使われていた時代の人々が生活のなかでどのように用いていたのか、あるいは社会現象であれば、当時の人々はそれらをどのように感じ取り、それを言葉として語っていたのか。それらを時代を超えて私たちに教えてくれるのが各時代に記録されたメディアであり、先のNHKアーカイブスであれば映像ストックとなるわけです。

では物故作家の場合、どのような仕事がアーカイブに当てはまるのでしょう?

まずはとにもかくも作家が遺した作品を整理することが挙げられます。アーカイブ団体の仕事はここに集約され(つまりアーカイブという概念における「記録し保存する」仕事)、そこから先のアウトプット、すなわち展覧会や書物にまとめ上げること(「後世に伝える」仕事)は美術館の学芸員や出版社の編集者といった専門家らが担うのが一般的ですが、MFAは規格外でして、基本的にアウトプットの仕事も私が請け負うようにしています。というのも、私自身が元々どちらかといえばアウトプットのほうに関心があったからです。

本稿の始めに、アーカイブの定義とは「記録し保存する」ことだけでなくその成果物を「後世に伝える」ことだと説明しましたが、いざ実作業をしてみると前者のことでいっぱいになるのが現実です。というのも1人の作家が生涯作り上げたものを実際の物量で受け止めるというのは、想像以上に重荷だからです(それは精神的な意味でも、物量的な意味でも)。物の整理というのはどこまでも尽きることがありません。ですから私がこの仕事に携わることを決めたとき、目標もなくただ整理するのではなく、なにか具体的な目標を決めようと思いました。その最たるものとして真っ先に思いついたのは「展覧会を開くこと」でした。その実現のために整理を進めて行こうと。つまり「成果を世に伝える」ために「記録し保存する」という発想です。

この発想が実を結んだのは、MFA設立の翌年に当たる2015年のことでした。渋谷・Diesel Art Galleryにて開催した、深瀬さんにとっては初の回顧展と呼んでも良い展覧会「救いようのないエゴイスト」です。前年の暮れから始まった同社コンペティションに企画を立案し、幾度となく提案の場を設けてもらい、結果として競合する他の企画を押しのけ、なんとかチャンスを掴み取ることができたんです。

〈下図版:初の回顧展「救いようのないエゴイスト」は大盛況となった/撮影・Wataru Kitao〉

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つまりどういうことかというと、MFA設立の数か月後には展覧会の構想に着手し始めていたということになりますから、当然ながら作品整理と同時並行して展覧会を作り上げていくことになった。しかもこの展覧会のキュレーターとプロデューサーを私が担うのですから(私はそういった仕事がしたかったわけですから)、自分でもこれからしようとしていることがどれだけ無理のあることかというのはよく分かっていました。しかし展覧会という明確な目標(「成果を世に伝える」)を持たなければ、私はこの仕事に対してどう自分のパッションを注ぐことができるでしょうか。答えはすでに明確でした。

それから、展覧会が決まったことによって、ひとつのデッドラインを設けられたのもありがたかった。企画が通ったのが、その年の暮れ。そして開催は5月末から。つまり5ヵ月間で展覧会の構想を決め、それに沿いながら作品を整理していくことにしました。いまになって振り返ると、当時はまだ深瀬作品をどう解釈して人々に伝えるかという言語化もままならない状態でしたから、解説文を書き上げるのにとても苦労したことを覚えています。しかしそうした発表の場を与えてもらえることによって言語化する機会は得られるわけで、やはりその点においても、ただ整理をし続けるだけでは達成できない段階を踏むことができました。

この展示はお陰様で好評のうちに会期を終えることができ、5,500名もの方々にお越し頂くことができました。この展覧会を構成するにあたって、段階的に工夫したことがいくつかありました。

まず始めに——これは業界では嫌われる考え方かもしれませんが——私は作家本人の顔写真を大きく伸ばして会場に設置したいと考えた。なぜなら、その時点で深瀬は転落事故以降25年間にわたって日の目を見ることがない作家だったからです。亡くなったのは2012年といっても、それ以前の25年ものあいだ誰とも意思の疎通ができない状態で過ごしていたわけです。つまり展覧会に来て下さる方々の大半は、生前の彼に会ったことがないばかりか、人によってはこれを機会に初めて知ることになる(実際に後日そういった感想を来訪者の方々からいくつも頂きました)。ですから、これは写真展ではあるけれども、まずなによりも始めに「深瀬昌久に遭遇する」という体験をしてもらい、その上で作品を見てもらうのが良いのではないか。そこで会場の中央に、彼の顔写真を大きく引き延ばしたパネルを設置したというわけです。

図版深瀬さんの顔を大きく引き延ばして展示会場の中央に設置した/撮影・Wataru Kitao〉

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工夫したことはもうひとつありました。展示会場には私がそれまで集めてきた彼の写真集や作品が掲載された昔の雑誌を並べて、お越し頂いた皆さんに自由に手に取って眺めてもらう「書籍コーナー」を作ったんです。

これは会期直前にピコンと閃いたことでした(ホントにもう頭上で電球が点いたんですよね!)。私たちは、時に本の力を借りて時代を超越することができる。その力を信じるなら、作家が活躍していた時代の書籍を会場に置いて好きに手にしてもらうことによって、本人不在の展覧会に新たな光を与えてくれるのではないか。それら展示されている作品がまったく知らないものだとしても、あるいはそれらが何十年ものあいだにわたって日の目を見ることがなかった作品だとしても。しかし1度設置すれば沢山の人が手に取って読むわけですから、本が劣化するのは目に見えています。私がそれまで十数年をかけて集めてきた本でしたから、当然のことながら悩みました。

そのとき不意に、私の前に1人の若者がひょっこりと姿を現したんです。それは18歳の私でした。彼は、深瀬さんの写真が見たくて仕方なかった。なぜこんなにも彼の写真に惹かれるのに、見ることが叶わないのだろう? 写真集を読みたくても高すぎて買うこともできない。新しい本も出ない。展示はない。知りたいことを知ることができない悔しさが私にも伝わってきます。ああ、彼に(あの頃の私自身に)(今の)私ができることがあるとすれば、それはどんなことだろう? 夢と希望に満ちあふれていたあの日の私が両手で「わあ!」と喜んでくれることって一体どんなことだろう? そのとき確信したんです、「救いようのないエゴイスト」展に本を並べることができれば、きっとあの日の私は微笑んでくれるはずだって。

18歳の私に背中を押されることによって、私は決心することができたんです。不思議ですよね。まだ所有していないもので展示に必要だと思われる本は買い足し、中には海外から取り寄せた本もありました。結果的に来訪者の方々はたいへん丁寧に本を扱って下さいまして、2か月半の会期を終えたあとも本は良い状態のままでした。

今でもなにか思い切った行動をするかどうかで悩むときには、決まって学生時代の自分が私の前に現れます。そして彼の期待に応えることは、少なくとも道を踏み外すことには繋がらないと思っています。ですからこの仕事は、18歳の頃の自分自身という最強のパートナーとの共同作業でもあるんです。

図版「救いようのないエゴイスト」展に設置した書籍コーナー〉

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さて、展覧会という発表の場を手に入れることができると、それに付随してもうひとつ着手できる仕事があります。それは本作りです。一般的に物故作家の場合、本人不在のなかで世間の関心が集まる機会というのはそれほど多くありません。しかし展覧会を開くことによって、その作家への関心度が一気に高まります。展示を見るだけでなく、ゆっくりと自宅で眺め、思いに耽ることができる本が欲しくなるものです。ですから展覧会を開くタイミングというのは本作りのタイミングでもあります。結果的に「救いようのないエゴイスト」の開催に合わせて2冊の本を作りました。ありがたいことに雑誌掲載の機会にも沢山恵まれ、MFAはアーカイブ団体としては珍しく「世に伝える」ことから幕を開けることができました。

しかし物故作家のアーカイブ仕事においてなによりももどかしく感じるのは、もう作家本人から話を聞くことができないということです。これを言っては元も子もないのは承知の上ですが、どれだけ私が勝手な思いを巡らせても作家本人と答え合わせをすることはできないのです。それでも私が希望を捨てずに続けることができたのは、私の手元に彼がかつて寄稿した雑誌があるからでした。それは私が18年間かけて集めてきたものでした。

どうしても分からないことがあっても、手元の雑誌を開いて点と点を結びつけることによって、奇跡的に気づけたことはこれまで数え切れないほどありました。そのたびに私は、なんだか深瀬さんと〝言葉なき対話〟をしているような気がして、胸が熱くなるのでした。この連載のタイトルに「言葉なき対話」とつけているのは、それがアーカイブという仕事をよく言い表していると思ったからです。言葉なき対話——ここでは故人との対話を意味しますが、同時に写真を見るということもまた言葉なき対話だと私は思います。

ときどき思うんです、たとえ生前の深瀬さんと話すことができたとしても、おそらく核心的なことはなにも話してはくれなかっただろうなって。彼はたいへん寡黙な人だったと聞きます。生前の彼を知る方々から彼の話を聞くことを何度も試みてきましたが、彼の写真を貫くような核心的な話はひとつも聞くことができませんでした。彼のような写真家ほど、人との会話で自分の写真を語るようなことをしなかったというのは想像にたやすいことです。そんな彼だからこそ、大切なことはすべて写真のなかに封じ込めていたと思うんです。これは言葉を使わない対話ですから、とても時間と手間がかかることですけれど、諦めずに続けていると、まだまだ新しい発見がポッと出てくることがあるんですよね。そしてそのたびに、人間が生まれ持ったユーモアの奥深さと温かさを噛みしめます。

というわけで今回は、どんな思いでMFAを起ち上げたのかについて綴りました。後編では「救いようのないエゴイスト」展をきっかけに海外へと活動の場を広げた経緯について触れますね。

《後編につづく》