ポケモンは獏にあげます ー 暮しと妖怪の手帖(5号)

長期滞在者

「ポケモンGO」が流行っている。もう爆発的な勢いでユーザーを掴んでいるようだ。アプリ公開日に、キャッチをしている歌舞伎町のホストのスマホをちらりと覗いてみたらGOしていたので(サボってたらあかんで)、こりゃあキャズムを速攻でぶち破ってかなり流行ってるなぁ、と感じるほどだった。

ちょっとした社会問題も生んでいたりして、ポケモンGOについては賛否両論で、いろんな論議がされている。まあ、好きならやればいいし、やっている人もやっていない人も互いに蔑む理由なんてないし、自動販売でどの飲み物を買うかどうかくらいのカジュアルな選択の話なのかもしれない。

ただ一つ感じるのは、ポケモンGOに中毒・依存のようにハマっていたり、とりあえず流行だからととりあえずやってみる派の人は、それなりに自分の時間を注いでいるということを考えるのはありなのかなぁ、と。

すごい楽しいはずなのだ、ポケモンは。少し妖怪的ともいえる愛くるしいキャラクターばかりで、コレクティブで人間古来の採集心をつつくし、そりゃ病みつきになる。その上、バトルができて友達とも遊べて、レベルが上がるという評価制度まで整っている。こりゃ楽しくないはずがない。

そうやって、楽しいからといってずりずり、ずぶずぶとハマっていくと、自分の、いや人間が持つ時間の価値に対する感覚が疎くなってしまう。ポケモンのような”夢産業”は、エンタメ性が高く、いつの時代ももてはやされてきた。童話『浦島太郎』もそういう娯楽と時間の価値に触れているような気がする。

自分の意思で、「自分の時間をポケモンGOに投資してるのだ」と感じている人は、自分の削られている時間を分かっている。それは、なにかしらの生産につながる場合もあるかもしれない。しかし、なんとなぁく惰性でGOしている人は、時間を切り崩すかのように消費してしまっているように思える。

後になって、急にハッとして、そこにあった夢に踊らされていたとならば、それは”悪夢”でしかない。現実に身を置きながらも自分から夢を見に行く、という積極的な選択ではなく、現実との見境が掴めぬままに夢を見ていることに気づかない状態というのは、やはり病的で、中毒・依存らしきものがある。

するとだ、連想ゲームのように、妖怪の姿がチラつきはじめる。

獏(ばく)という妖怪がいる。中国から伝来し、人の夢を餌にして生きるという。体形は熊のよう、鼻は象のように長く、目は犀(サイ)に似て、尾は牛のよう、脚は虎のように太く、毛には斑点がある。

日本に残る伝承だと、福島や熊本にこういう話がある。悪夢を見た後に「夕べの夢は獏にあげます」と唱え、息を3度吐きかける。すると、その悪夢を二度と見ずにすむらしい。

いったん、話をポケモンにいったん戻そう。ポケモンGOが、ある種の”夢”だとしたとき。もしもプレイする中で、”悪夢”のような思いを感じたなら、獏の存在を思いだしてみるといい。その夢を食べてもらうことで、自分の持つ時間と向き合い、価値を見直すことで、夢は夢として楽しみ、現実は現実でより楽しむことができるかもしれない。

“心のお掃除屋”のような妖怪、獏、をポケモンと戦わせてみるとどうだろう。と思ってしまうくらい、人々がポケモンGOへの熱が上がりすぎている気がするのは、ぼくだけなのか。

「ポケモンは獏にあげます」

と唱える人が、もうちょっと増えてもいいんじゃないかなぁ。

baku_moeru2
「妖怪をのぞけば、暮しと人がみえる、自分がみえてくる」を仮説に置きながら、勝手気侭な独自の研究を進めていくのが、超プライベート空想冊子『暮しと妖怪の手帖』。妖怪を考え、社会を考え、人を考え、自分を考え、現代における“妖怪と人の共存”のあり方を模索していけるようなダイナミズムを持ちたいと思っています(嘘)。