虫の譜|コクワガタ Dorcus rectus

虫の譜

コクワガタ

昨年の夏にさよさんが軽井沢から連れ帰って譲り受けたコクワガタが死んだ。

死んだというより、死なせたのだ。ふと嫌な予感がして虫かごのふたをむしり取るように開けてみると、もうおよそ命の気配が無いほどに全てがカラカラに乾ききっていた。枯れ葉も、底に敷いていた椰子殻のチップも、乾きすぎてふわりと浮きあがっているようにすら思えたし、穴のあいた切り株にセットしたマンゴーのゼリーは表面がひび割れていた。チップの中でコクワガタは、背中を丸めて脚を硬く伸ばしたまま横たわっていた。あっ!と声を上げて手のひらに載せ、駄目だろうと思いながら霧吹きをすると、ほんのかすかに胴が動いた。胸と胴の関節が機械みたいにゆっくりと、わずかにのけぞったり丸まったりした。載せた手のひらをお湯の上にかざして温めてみたり、伸びたままになっているオレンジ色の口にスポイトで水を垂らしてゼリーをのせたりするうちに脚も動いたように見えたけれど、絶望だった。翌日には完全に動かなくなっていた。

甘い考えで飼ってきたんだと思い知らされた。去年の冬を越したのも今思えば偶然のようなものだ。時折虫かごを覗いて霧吹きをする、ゼリーが減っていたら交換する。それを何のルールも決めずに「気が向いた時に」というペースでやってきたのだから、気が向かなかったらクワガタは飢えて、渇いて、死んでしまう。当然のことだ。冬に霧吹きをすることの怖さもあった。体が冷えすぎて弱ってしまうのではないかと。でもそんなのは少しネットで調べれば、あまりにも多くの人がどうすればよいか教えてくれていることだ。

自分は好きな時に水を飲み、好きな時に食べられる。クワガタはさぞ苦しかっただろうと思う。あんなに乾ききった虫かごの中で、少しずつ動けなくなっていったのだと思うと本当に申し訳ない。虫というだけで最初は怖がっていた妻が可愛がるようになるほどに、虫かごの中で夏も冬もごそごそと可愛らしく健気に、そして威厳ある姿で生きてきたのを、自分の甘さのせいで苦しみとともにブツリと断ち切ってしまった。どれだけ悔いたってもう虫かごは空っぽで、取り返しがつかない。

浅草寺の、本堂とスカイツリーが見えるはとバスの駐車場の植え込みに埋めた。ねっとりした土に穴を掘って、新品のマンゴーゼリーをぼとりと落とし、その上になきがらを置いた。そっと土を被せてクワガタが見えなくなった瞬間、今さらまた「あ、」と思ったけれど、そのまま穴を埋めてミネラルウォーターをたっぷりとしみこませた。