虫の譜|ノコギリクワガタ Prosopocoilus inclinatus

虫の譜

Prosopocoilus_inclinatus

小学3、4年のある晩のこと、得意げな笑みを匂わせた父が大きな段ボール箱を抱えて会社から帰ってきた。箱を開けて、私は分厚い眼鏡をずり落として文字通り狂喜乱舞した。中身はナントカ流の生花のように大胆に放り込まれた木の枝葉と、ガサゴソ歩き回るいっぱいのカブトムシとクワガタ。三重の山中に工場を構える取引先があり、その会社の社長さんからのプレゼントだった。夜になると、工場の灯火めがけてカブトムシやクワガタが群がってくるという。

それからさほど間を置かずして、週末の夜に父とその工場にお邪魔した。土曜日の、それもかなり遅い時間帯だったはずだけれど、社長さんは灯りを点けて私たちを待ってくれていた。期待通り、少し有難みを欠くほどたくさんのカブトムシやクワガタがうなりを上げて群がっていて、持参した虫かごは見る見るいっぱいになった。帰りの車中、父の隣りの助手席で私は高揚しっぱなしだった。

その後も何度かその工場を訪れた。三重に向かう高速道路はくねくねと曲がりくねった山道だった。オレンジ色のライトに照らされて、縞模様の影が次々と父と私の上に浮かんでは飛び退っていった。ラジオはいつもMBSで阪神戦。ピッチャーだとマイク仲田や中込、バッターだと新庄、亀山、オマリーなんかが活躍していた頃だ。私は道中父と過ごすその時間と空間が大好きで、よく自分たちの乗った車が暗い山道を走って行く幸せな姿を空から眺めるアングルで頭に思い描いていた。

けれどもある時期を境に、その工場へ虫採りに行くことについて父の歯切れは悪くなっていった。最後にそこを訪れたのはそれまでとは違って明け方のことで、工場には誰もおらず灯りは一本も点いていなかった。カブトムシもクワガタも一匹も見つからず、あれほど彼らの羽音が渦巻いていたのは幻かと思うような静けさだった。
すっかり日が上り切って、父と私は諦めて口数少なく車に乗り込んだ。山道を下り始めたところで、父があっと声を上げて車を止めた。クワガタおったやろ、いま跨いだわ、という父の言葉に慌てて助手席を降りてみると、果たして一匹の大きなノコギリクワガタが大アゴを振りかざしてアスファルトを歩いていた。

帰りの助手席で、私は虫かごの中の立派なクワガタを飽かず眺めて「神様が置いとってくれたみたいや」と興奮気味に何度も言った。そしてまたこの一匹の喜びの大きさは、やっぱり父はあの社長さんと仲違いしたんだ、ということを改めて私に確信させるようだった。