誰かとの時間を共有するということは、
共有している相手の時間を、
一時の命を、わけてもらっているということだと思う。
先日夢に、しばらく会っていない、おそらくこれからも会うことのない人が現れた。
もう何年も会っていないのに時間は今を流れていて、
たまたま再会して、互いの近況を語り、別れるという、
なんの面白みもない、いつもの夢で起こる不思議なことがなにも起こらない、
ごくごく自然に起こりそうな日常に根付いた夢だった。
だから目を覚ましても、なんだか本当に起きたことのような錯覚に陥って、
「久しぶりに会ったけど、相変わらずだったなぁ」と思った。
夢の中に登場した現在のその人は、きっとわたしの作り出したものでしかないけれど、
普段あまり思い出したりしない人なのに、きちんとわたしの中に、その人は生きていた。
専門学校の頃の友達と会話をしていて、卒業間近のある1日の話になった。
わたしが覚えていたことを友達が忘れていたり、
わたしが忘れていたことを友達が覚えていたりして、
記憶をどんどん摺り合わせていくと、その日の教室の風景が鮮明に蘇ってきた。
わたしが忘れていた時間の命は、こうして友達の中に生きていて、
友達が忘れてしまっている時間の命も、わたしの中にはちゃんと生きている。
こんな風にわたしが今までわけてもらった時間の命は、
きっとわたしの中に、わたしが生きている限りは生き続けている。
時間という名の舟をこいで、記憶という名の岸辺に降り立つ。
たまに、そっと、そういう心の中の旅にでて、
わたしの中で息をしている時間の命たちと触れ合ってみる。
わたしの中にあなたの岸辺があるように、
あなたの中にわたしの岸辺がある。
そう思うとなんだか嬉しくなるし、
格好が悪くてもいいから、
居心地のいい岸辺でありたいと思う。